著作物について
聖徳太子は六一五年ごろまでに『三経義疏』という仏教の経典の注釈書を作成しています。
これは『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』の三つの注釈書の総称です。
『法華義疏』は聖徳太子の自筆とされる書が現存しており、日本最古の肉筆の遺品となっています。
また、聖徳太子は六二〇年になると、馬子たちにはかり、『天皇記』『国記』といった史書の編纂を開始します。
しかしこれらの史書はいずれも焼失しており、現存していません。
『天皇記』は皇室の系譜を記録したもので、『国記』国の歴史を記録したものではないかと推定されています。
このようにして、聖徳太子は著作・編纂活動も行っていたのでした。
この時期は聖徳太子の晩年にあたりますが、こういった活動が行われていたことから、政情は安定していたものと考えられます。
やがて亡くなる
六二二年の二月になると、聖徳太子は斑鳩宮で倒れてしまいます。
そして二月二十一日に妃の膳大郎女が死去すると、その翌二十二日に、聖徳太子もまた、後を追うようにして亡くなりました。
享年は四十九でした。
日本書紀には、聖徳太子が亡くなると、王族も臣下も、国中の民衆もみな悲しんだ、と記されています。
日月は光を失い、天地が崩れ、これから先は誰を頼みにすればよいのだろうかと嘆いた、とも書かれており、聖徳太子の死は大きな出来事だったと強調されています。
日本書紀は聖徳太子の死からおよそ百年後に成立したのですが、未来を予知できたという話や、仙人との関わりの挿話からみるに、太子の死から編纂までの間に伝説化が進み、その様子が反映されているようです。
この時代(八世紀)にして、すでにそのようにあつかわれていたことから、現代の視点から、聖徳太子の実像を知るのは困難となっています。
とは言えこの時代に、皇族の中に優れた人物がおり、国家体制の改革や、宗教や思想など、新しい文物の吸収に尽力し、日本という国のありようを大きく変えたのは、事実なのでしょう。
太子信仰が生まれる
聖徳太子の死後にも、仏教はさらに日本で発展していき、やがては独自の宗派が誕生するまでになりました。
このため、聖徳太子は特に仏教徒たちから崇められるようになり、観音菩薩の生まれ変わりなのだとまで、高く位置づけられるようになります。
この結果、聖徳太子自身が信仰の対象になりました。
十二〜三世紀の人である、浄土真宗の開祖である親鸞は、聖徳太子の恵みによって、自分の進むべき道を見いだせた、と述べています。
このことから、その影響力は、数百年を経ても残っていたことがわかります。
これはすなわち、それだけ聖徳太子の行った事業が、長く日本の歴史に影響を及ぼしたことの現れでもありました。
聖徳太子の時代
こうして見てきたとおり、聖徳太子の時代において、日本は外来の文物を摂取し、それを定着させるための活動が行われたのでした。
これによって、日本人の政治、宗教、倫理観などに大きな変化が発生し、国のかたちが大きく変わっていくことになります。
総じて言うと、これによって日本は発展への道を歩んでいくことになったので、聖徳太子の事跡は高く評価されました。
それでも、政治制度は遠からずまた変革の波にさらされるものですが、宗教はそう簡単には変化しませんので、仏教との関わりが深かったことが、聖徳太子の名声を長い間、高めることにつながりました。
聖徳太子の実像がどうだったかと考えてみるのもよいのですが、まずは彼が生きていた時代が、日本にとっての大きなターニングポイントであり、聖徳太子は変革の中心人物の一人だったという認識を抱いておくことが、重要なのだと思われます。


