鄧艾の備え
鄧艾は西方にあったころ、長城を修復し、各地に砦を作っています。
やがて羌族が反乱を起こし、涼州の刺史は何度も殺害されますが、官民が安全を保てたのは、鄧艾が築いた砦に立てこもったからでした。
このようにして、鄧艾は自分の死後にも役立つ備えをしていたのです。
鄧艾評
三国志の著者・陳寿は鄧艾を次のように評しています。
「鄧艾は強い意志の持ち主で、功績を立てた。しかし災いを防ぐための配慮が乏しく、やがて咎を受けることになってしまった。
遠く諸葛恪の失敗を予測したが、目の前にある自分の危機は察知できなかったようだ。これが昔の人が言うところの『目論』なのだろう」
『目論』とは、遠くにいる他人の間違いは理解できるのに、目の前にある自分の間違いに気がつけないことを言います。
鄧艾は優れた能力を備えており、魏の食糧生産力を向上させ、将軍としてもおおいに活躍しました。
そして姜維の侵攻を何度も退け、その野心をくじいています。
蜀に侵攻した際には、思い切った作戦を実行に移し、蜀を滅亡させる大功を立てました。
しかし、人格にはやや難があり、人づきあいが上手でなかったので、やがて高官たちの間で孤立してしまいます。
このような背景があったところに、蜀の征服後、独断で行動していたことが、謀反の疑いを招き、ついには罪人として処断されてしまう運命を招いたのでした。
鍾会の陰謀による結果ではありましたが、鄧艾自身にも、それを招き寄せてしまうだけの落ち度があったのも確かでした。
他人の間違いを指摘するのは容易でも、自分のそれを自覚し、改めるのは難しい、ということなのでしょう。