蜀が降伏を決定する
鄧艾はそのまま、軍を蜀の首都である成都に進めます。
すると、成都にいる劉禅と重臣たちは対応を協議しました。
蜀では成都にまで攻め込まれることを想定しておらず、備えができていませんでした。
このため、民が山野に逃げ出すありさまで、成都で防衛に尽くすのが難しい状況になっています。
このため、同盟国である呉に逃亡する、険しい地勢の南部に逃亡する、といった意見が出されました。
しかし呉に逃げてもいずれ魏に併合され、異民族が多い南部に逃げても、反乱が起きる可能性が高いことが指摘されます。
この結果、魏に降伏することで意見がまとまり、雒城に到達していた鄧艾の元に、この旨を伝えてくる使者がやってきました。
鄧艾は喜んでこれを受諾します。
劉禅が降伏してくる
鄧艾が成都にたどり着くと、劉禅は一族六十人あまりを引き連れて城を出ます。
そして手を後ろに縛り、棺をかついで軍営の門のところまでやってきました。
鄧艾はこれを迎え、節(指揮権を示す印)を手に、劉禅のいましめを解き、棺を焼き払います。
そして降伏を受け入れ、これまで魏に抵抗していた罪を問わないことを伝えました。
こうして蜀は四十二年の歴史を終え、滅亡しています。
蜀の状況を安定させる
劉禅は各地の蜀軍に降伏したことを伝え、武装解除をするように命じました。
これを受け、姜維らも鍾会に降伏を申し入れます。
鄧艾は蜀の将兵たちを調査し、統御しました。
そして兵士たちに略奪を許さず、人心を落ち着かせることを優先します。
また、蜀の者たちに、元からしていた仕事をそのまま続けさせたので、人々は鄧艾を称賛しました。
劉禅らに地位を与える
鄧艾はさらに情勢を安定させるため、独断で劉禅を行驃騎将軍(驃騎将軍の代行)に任命しました。
また、太子の劉璿を奉車都尉に、その他の王たちを駙馬都尉に任命します。
これらはいずれも、皇帝の側近の地位です。
その他の官吏たちも、元の地位に応じて魏の官職を与えられたり、鄧艾の属官になったりしました。
そして師纂に益州刺史(長官)を、他の者たちに蜀の諸郡の太守を兼務させます。
こうして鄧艾は、蜀における臨時の体制を作り上げました。
しかし独断で行ったこの措置が、やがて鄧艾の身に危機をもたらすことにもなります。
京観を作る
一方で鄧艾は京観を作り、勝利の記念とします。
京観は敵兵の死骸を積み上げ、それを土でおおって作るものです。
この時に、戦死した魏の兵士たちも、蜀兵とともに埋葬されました。
自分の手柄を誇る
こうして大きな成功をおさめると、鄧艾は自分の手柄を自慢しはじめました。
ある時、蜀の士大夫たちに「君たちを征伐したのがわしだったから、こうして今日、無事でいられるのだぞ。もしも呉漢のような男だったなら、ひどい目にあっていただろう」と言います。
呉漢は、後漢の建国期に活躍した武将ですが、当時、蜀を支配していた公孫述を討った際に、その一族を皆殺しにし、兵に略奪をさせ、宮殿を焼き払うなどの、残忍な行いをしていました。
それと比較して、自分の措置が寛大だったことを述べたのですが、こういったことを自分で口にすると、評価が下がってしまうだけで、何の得にもなりません。
そして「姜維はこの時代の英雄と言える男だが、わしと出会ってしまったために、追いつめられてしまったのだ」とも言いました。
見識のある者たちは、鄧艾のこのような傲慢な発言を嘲笑します。
鄧艾は剛直な人柄でしたが、このために周囲の人々からは顰蹙を買いがちでした。
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