衛将軍は中国の官職です。
前漢の時代に、宮廷の衛士を統括し、皇帝を守る職として設置されています。
つまりは近衛兵団の司令官の地位です。
前漢の中興の祖と称えられる九代皇帝・宣帝(在位 前74年 – 前48年)の時代には、衛将軍の地位にある者が政治を補佐することもあり、皇帝の側近という位置づけになっていました。
【宣帝 度重なる外征で疲弊していた前漢を復興させた名君】
宣帝が即位したころには、大将軍の地位を占めた霍氏一族の力が強く、政治を壟断されていました。
宣帝はこれを排除して親政を行いましたので、大将軍にかわって衛将軍に任命した者を、重用したのだと思われます。
後漢・三国時代
後漢では大将軍・驃騎将軍・車騎将軍につぐ、第四位の格式を持つ高い地位でした。
上位の三つの将軍職と同じく、独自に幕府を設置して、長史(副官)や司馬(監察官)などの幕僚を任命する権限をもっています。
後漢では常任ではなく、必要に応じて任命されていますが、このあたりは驃騎将軍や車騎将軍と同じでした。
後漢や三国時代ではあまり任じられることがなかったのですが、代表的なところでは、蜀の姜維が247年に衛将軍に就任しています。
【諸葛亮の後を継ぐべく奮闘した姜維 衛将軍からさらに立身した】
その後、姜維は何度か出撃するものの、なかなか勝利を得られませんでしたが、255年に魏の雍州刺史・王経を破った功績によって、大将軍に昇進しました。
その他には、魏の曹洪が220年に、曹丕によって衛将軍に任命されます。
その後は驃騎将軍に昇進したのですが、曹洪は曹丕が若い頃に、申し込んできた借金を断ったことがありました。
曹丕はそのことを恨んでおり、理由をつけて曹洪を処刑しようとします。
周囲の取りなしによって何とか助かったのですが、曹洪は官位を剥奪され、財産も没収されてしまいました。
曹洪は皇帝を守る衛将軍に任命されたのに、内心では曹丕に信用されていなかった、という話でした。
その後
晋が建国されると、やがて衛将軍の地位が高まり、将軍の筆頭に格上げされています。
これは晋の功臣である陸曄が、晩年に衛将軍に就任したことが影響しています。
その後、唐代になると驃騎将軍と車騎将軍が軍の中心となり、衛将軍は廃止されました。