文聘は字を仲業といい、荊州の南陽郡宛県の出身です。
劉表に仕える将となり、北方の防衛にあたっていました。
劉表は二〇八年に亡くなりましたが、すると子の劉琮が後を継ぎます。
この時期、曹操は荊州の征伐を行っていましたが、劉琮はかなわないと判断し、州を挙げて降伏することにしました。
この時、劉琮は文聘を呼び、行動をともにしようとします。
しかし文聘は「私は州を守ることができませんでした。ですので、罪を待つのが当然です」と述べ、従いませんでした。
曹操に起用される
曹操が漢江(荊州北部を流れる川)を渡ると、文聘はようやく曹操の元を訪れます。
曹操は「どうして遅れたのだ」と問いました。
すると文聘は「私は先日、劉荊州を補佐し、国家に仕えることができませんでした。
荊州は陥落しましたが、常に漢川を守り、領土を保つことを念願としてきました。
生きては若年の孤児(劉琮)に背かず、死しては地下におられる方(劉表)に恥じることがないようにと思っていましたが、計略はうまくいかず、ここにいたらざるをえませんでした。
実のところ、悲しみと慚愧の思いによって、早々にお会いすることはできなかったのです」と答えました。
そしてすすり泣き、涙を流します。
曹操は心を痛めた様子で、「仲業よ、卿は真の忠臣である」と述べ、文聘を厚遇しました。
文聘は兵を授かり、曹純とともに劉備を長阪まで追撃する戦いに参加します。
江夏太守となる
曹操は先に荊州を平定していましたが、江夏は呉と国境を接しており、民心が不安定になっていました。
このため文聘を江夏太守に任命し、北方の兵を指揮させ、呉との国境を守らせます。
この時に文聘は関内侯の爵位も与えられました。
関羽との戦いで活躍する
その後、赤壁の戦いを経て、荊州の南部は劉備の支配地となります。
そして関羽が曹操軍と対峙するようになりました。
文聘はこのころ、楽進とともに尋口において関羽を攻撃し、功績を立てます。
そして延寿亭侯に爵位が上がり、討逆将軍の官位を加えられました。
また、漢津において関羽の輜重(輸送隊)を攻撃し、荊城で船を焼き払うなどし、荊州の防衛に貢献しています。
曹丕の時代にも功績を立てる
曹操が亡くなり、曹丕が魏の皇帝になると、長安郷侯に爵位が上がり、仮節(軍事裁量権)も与えられました。
それから夏侯尚とともに江陵を包囲した際に、別軍を率いて沔口に駐屯します。
この時、石梵で敵の部隊と遭遇し、これを撃退して功績を立てました。
これによって後将軍となり、新野侯に封じられています。
また、孫権が自ら五万の兵を率い、石陽において文聘を包囲し、激しく攻撃をしかけてきたことがありました。
文聘は堅く守って動じなかったので、孫権は二十日あまりとどまったものの、やがて撤退しています。
文聘はこれに追撃をかけ、呉軍を撃破しました。
この功績によって五百戸を加増され、以前のものと合わせて千九百戸となっています。
やがて亡くなる
文聘は江夏に数十年に渡って駐屯し、威厳と恩徳を備え、名声は敵国にも響き渡り、賊(呉)はあえて侵入することがありませんでした。
これらの功績を受け、文聘の領地が分割され、子の文岱が列侯に取り立てられます。
また、甥の文厚が関内侯に取り立てられました。
文聘はやがて亡くなりましたが、壮侯とおくりなされています。
子の文岱が先に亡くなっていたので、文聘の養子の文休が後継者となりました。
文休が亡くなると、子の文武が後を継いでいます。
嘉平年間(二四九〜二五四年)には、譙郡出身の桓禺が江夏太守になりましたが、清廉であり、かつ威厳と恩徳を備えており、その名声は文聘に次ぐものとなりました。
文聘評
三国志の著者・陳寿は「文聘らは州郡を鎮めて守り、威厳と恩恵を示した」と評しています。
文聘は忠義に厚かったことから、曹操からすぐに起用されて重要な役割を任され、それを生涯に渡ってまっとうしています。
戦場においては劉備軍や孫権軍を相手に幾度も功績を立てており、魏の良将の一人だと言えます。