劉曄は魏に使えた参謀です。
地方の反乱や張魯の討伐の際に曹操に助言をし、勝利へと導いています。
一方で、漢王室の血を引いていることから、劉氏から曹氏へと権力が移り変わってゆく過程において、目立たぬようにと努めてふるまってもいます。
このため、その知力の割には活躍の度合いがやや小さくなりました。
この文章では、そんな劉曄について書いています。
淮南に生まれる
劉曄は字を子揚といい、淮南郡成悳県の出身でした。
後漢の初代皇帝・光武帝の子である阜陵王・劉延の子孫で、王室の血を引いています。
父は劉普といい、母は脩といいました。
そして2才上に兄の渙がおり、4人家族だったようです。
母が父の側近を討つように遺言する
劉曄が7才の時に母は病に倒れてしまいましたが、臨終の際に、劉曄たちに次のように言い残します。
「普(父)の側近は、人に取り入って悪事を働く気質の持ち主です。
私が死んだ後で家を乱すのではないかと心配しています。
おまえたちが大きくなってから彼を除いてくれるならば、思い残すことはありません」
遺言を実行に移す
劉曄はやがて13才になると、兄の渙に「亡き母上の遺言を実行に移しましょう」と言いました。
しかし渙は「そんなことはできない」と言ってこれを拒みます。
すると劉曄はひとりで奥の部屋に入り、父の側近を殺害すると、そのまま外に出て母の墓に報告しました。
このようにして、劉曄には果断なところがあったのでした。
父に許される
この事態に家中は仰天し、すぐに父に知らせが届きます。
父は怒り、すぐに人を送って劉曄の後を追わせました。
劉曄は家に戻ると頭を下げて謝り、「亡き母上の遺言を実行しました。許しを得ずに行動した罰は受けます」と述べます。
父は内心で、劉曄には見どころがあると思っていたので、結局はとがめませんでした。
許劭に評価される
この頃、汝南の許劭は人物鑑定で名を知られていましたが、中央が混乱すると、やがて揚州に避難してきました。
そして劉曄のことを知ると「彼には君主を補佐する才能がある」と評しています。
このようにして、劉曄は若くして人から期待を抱かれるだけの資質を見せていたのでした。
鄭宝に目をつけられる
揚州には侠客や、狡猾なあらくれ者が多かったのですが、その中でも鄭宝や張多、許乾といった者たちが多くの配下を抱えていました。
中でも鄭宝が最も勇敢かつ果断で、群を抜く才能を備え、地方において勢力を築きます。
彼は人々を従え、長江を南に渡ろうと計画していましたが、劉曄が名族の出身だと知ると、強迫して計画の主唱者に仕立て上げようとしました。
劉曄はこの時二十余才で、内心ではこのことに憂いを抱いていましたが、これといって打開策がない状況に置かれてしまいます。
曹操の使者がやってくる
ちょうどこの頃、曹操の使者が揚州を訪れ、現地の様子を調査しに来ました。
劉曄はこれをよい機会だと考え、使者に会いにでかけ、情勢について論じます。
そしてそのまま使者の帰還のお供をして揚州を脱出しようと考え、数日の間、滞在を続けました。
鄭宝の殺害を図る
すると鄭宝もまた、数百人の部下を引き連れ、牛と酒をもって使者の元を訪れます。
劉曄は家来に命じて仲間を集め、中門の外に座を設け、鄭宝たちのために酒と食事を用意し、宴会を開きました。
そして劉曄は気概のある若者と密談し、盃のやりとりをする隙をついて、鄭宝を斬らせてしまおうと計画します。
自ら斬り捨てる
しかし鄭宝は酒が苦手だったのでそれほど飲まず、酔いつぶれそうな気配はありませんでした。
このため、若者は行動を起こせないでいたので、劉曄は自分で決着をつけてしまうことにします。
劉曄は佩刀を引き寄せると鄭宝を斬り、その首を取ると鄭宝の部下たちに告げました。
「曹公(曹操)からの命令がある。抵抗する者は鄭宝と同罪になるぞ」
すると部下たちは驚き恐れ、陣営に逃げ帰ってしまいました。
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