陳策の討伐
曹操は寿春(揚州)にやってきた頃、廬江のあたりに陳策という山賊がおり、数万人の兵力を集め、要害を拠点としていました。
曹操は以前に部隊を派遣して退治しようとしましたが、勝つことができませんでした。
このため、曹操は改めて討伐をするべきか、配下の者たちに相談します。
すると皆「陳策が守る要害は、山は高くて険しく、谷は深く、守るのに容易で、攻めるのが困難です。
その上、手に入れずともさしたる損害にはならず、手に入れてもたいした利益にはなりません」と述べました。
劉曄の意見
これに対し、劉曄は次のように述べます。
「陳策のごとき小僧は、混乱に乗じて要害に入り、徒党を組んで虚勢をはっているだけです。
爵位を与えたり、命令の系統を確立したり、権威や信頼によって仲間を掌握しているわけではありません。
以前は討伐に向かった部隊長の身分が軽かった上に、まだ国が統一されていませんでした。
だから陳策は要害にこもって抵抗する勇気を持てたのです。
ただいま、天下はほぼ平定されており、後から服従をすれば、処罰されることになります。
死を恐れて恩賞を求めるのは、愚者も賢者も同じです。
ゆえに広武君は韓信(漢の大将軍)のために策略を立て、先に宣伝をし、行動を後にし、韓信の名声と威光によって隣国を服従させました。
(これは韓信がいくつかの国を陥落させ、その武名が高まったので、広武君はそれを利用して燕という国を、戦わずして降伏させた事例をさしています)
明公(曹操)の徳は先に東方を討伐すれば、後になった西方が残念がるほどのものです。
まずは恩賞を掲げて降伏を呼びかける策を用い、その後で大軍を差し向ければ、命令を布告したその日のうちに軍門が開かれ、敵は自壊するでしょう」
劉曄の策が的中する
曹操は劉曄の策を採用し、実行に移します。
勇将を先頭に立て、その後に大軍を続けさせると、到着するや陳策を打ち破ることができ、劉曄が予測した通りに事態が推移しました。
曹操は遠征から帰還すると、劉曄を召し出して司空倉曹椽(大臣の属官)に任命します。
こうして劉曄は、曹操の側に仕える立場を獲得しました。
張魯の征討に従軍する
215年になると、曹操は漢中を支配する張魯を討伐します。
この時に劉曄は主簿(側近)に転任し、従軍しました。
曹操軍は漢中に到着したものの、山が険しくて簡単に登ることができず、兵糧が欠乏します。
このため曹操は「ここはひどい土地だ。これでは策を講じようもない。食料が残り少なくなってきたし、早く引き上げた方がよかろう」と述べ、率先して撤退を開始しました。
そして劉曄に命じ、後続する諸軍を指揮し、順番に撤退させるようにと命じます。
劉曄は攻撃を主張する
劉曄は張魯に勝てると判断しており、しかも兵糧の輸送が滞っていることから、全軍を無事に撤退させるのは困難だと考えました。
このため、馬を走らせて曹操の元に駆けつけ、「攻撃をしかけた方がよろしいでしょう」と進言をします。
すると曹操は攻撃を継続することに決め、兵を進軍させ、多くの弩を用いて張魯の陣営に射撃を加えました。
まもなく張魯は逃亡し、漢中を平定することができました。
このように、劉曄には情勢を的確に読み取り、正しい判断をする能力が備わっていたのでした。
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