臧覇は曹操に仕えて活躍した将軍です。
主に徐州・清州などの東方で活躍し、孫権との戦いでもいくたびか勝利しています。
義に厚く、将を束ねる力があったので、曹操から重用されました。
晩年は朝廷から警戒されることもありましたが、おおきな瑕疵はなく魏の高官として生涯をまっとうしています。
この文章ではそんな臧覇について書いています。
泰山に生まれる
臧覇は字を宣高といい、泰山郡華県の出身でした。
父は臧戒といい、県の獄掾(刑務官)をしていました。
ある時、太守が勝手に人を殺害しようとしましたが、臧戒は法をたてにしてこれを聴き入れませんでした。
すると太守は大いに怒り、命令を出して臧戒を捕らえさせ、役所に連行させます。
この時、百人以上の者が護送にあたりました。
臧覇は十八才でしたが、数十人の食客を率い、費西山の山中で父を奪い返します。
護送者の中に抵抗する者はなく、臧覇は父とともに徐州の東海郡に亡命しました。
この事件によって、臧覇の勇壮さが評判となります。
徐州で地位を得る
やがて黄巾の乱が発生すると、臧覇は徐州刺史(州長官)の陶謙に従ってこれを撃破しました。
そして騎都尉(指揮官)に任命されます。
それから徐州で募兵にあたりましたが、孫観、吳敦、尹禮とともに兵を集めると、臧覇が大将となり、開陽に駐屯しました。
曹操に起用される
その後、陶謙が病死すると、徐州は劉備が受け継ぎました。
しかしやがて、兗州から流れてきた呂布に奪われてしまいます。
それから曹操が劉備を支援し、呂布を討伐しましたが、臧覇らは兵を率いて呂布に味方しました。
しかしやがて、呂布は曹操に捕らえられてしまったので、臧覇は身を隠します。
曹操は臧覇を捜索させて連れてこさせ、面会しましたが、そこで臧覇のことを気に入りました。
そして臧覇に命じて仲間の吳敦、尹禮、孫観、そして孫観の兄の孫康らを招き寄せると、彼らはみな曹操の元を訪れます。
曹操は臧覇を琅琊郡の相(統治者)に、吳敦を利城、尹禮を東莞、孫観を北海、孫康を城陽の太守に任命しました。
さらには青州と徐州の二州を割き、臧覇に委ねます。
このことから、臧覇は曹操から高く評価されたことがうかがえます。
臧覇はそれほどに、将たちを束ねる能力が優れていたようです。
頼ってきた者たちの助命を申し出る
曹操は兗州を統治していた際に、徐翕と毛暉という者たちを将軍に任命していました。
その後、兗州が呂布の攻撃を受けて混乱すると、徐翕と毛暉は反逆します。
やがて曹操が呂布に勝利し、兗州が平定されると、徐翕と毛暉は臧覇を頼って亡命しました。
このような経緯があったので、曹操は劉備を介し、臧覇に二人の裏切り者の首を送ってくるようにと伝えます。
すると臧覇は次のように劉備に語りました。
「私がこうして自立していられますのは、頼ってきた者を裏切るようなことをしないからです。
私は曹公(曹操)から恩を受けて生命をまっとうしていますから、あえて命令を違えようとは思いません。
しかし、王者であり霸者である君主に対しては、義に基づいた言葉を述べることもできるとか。
願わくば、将軍(劉備)から取りなしていただけないでしょうか」
劉備が臧覇の言葉を伝えると、曹操は嘆息をして臧覇に言いました。
「このようなことは古人がよくしたというが、君がそうするのは、わしにとっても願わしいことである」
このように述べ、頼ってきた者を守ろうとする臧覇の行いを認めます。
そして徐翕と毛暉を郡守に取り立てました。
こうして臧覇は徐翕と毛暉を守ったのでした。
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