袁紹との戦いで東方を担当する
曹操と袁紹が敵対するようになると、臧覇は精兵を率い、いくたびか袁紹が支配していた青州に侵入します。
このため、曹操は東方のことを気にかけずにすみ、袁紹との戦いに専念することができました。
やがて曹操が南皮で袁譚(袁紹の長男)を撃破すると、臧覇らは祝賀のために訪問します。
この時に臧覇は自分の子弟と、諸将の父兄を鄴に集めるようにと要請しました。
これによって曹操への忠誠を示したのですが、これを受けて曹操は次のように述べました。
「諸君の忠孝は、またそこにあるのか。
その昔、蕭何は子弟を側仕えさせたが、高祖(劉邦)は拒まなかった。
耿純は家を焼き、棺をかついで従ったが、光武帝(劉秀)は逆らわなかった。
わしがどうしてこれを軽く扱おうか」
このように、かつての前漢・後漢の名臣たちが主君に忠誠を示した故事を持ち出し、臧覇らの行いを承認したのでした。
立身して徐州刺史となる
その後、東方の州で混乱が発生しましたが、臧覇らは義をもって暴力を征し、青州を平定しました。
その功績は大変に大きく、戦いに参加した将たちはみな列侯に封じられます。
臧覇は都亭侯となり、威虜将軍の官位も加えられました。
また、于禁とともに反乱を起こした昌豨を討ち、夏侯淵とともに黄巾の残党である徐和を討つなどし、それらの功績によって徐州刺史に任じられます。
武周を敬意を払う
沛国の武周は下邳(徐州の首都)の令を務めていましたが、臧覇は彼のことを尊敬しており、自らその宿舎を訪れるほどでした。
臧覇の方が身分が上でしたので、これは格別のふるまいをしていたことになります。
ある時、部下の従事がでたらめを述べて法を犯しましたが、武周はその罪を把握すると、すぐに身柄を押さえて取り調べました。
このことによって、臧覇はますますもって武周のことを高く評価するようになりました。
孫権との戦いで活躍する
その後、臧覇は孫権との戦いに従軍し、先鋒を務め、再び巣湖に入り、居巣を攻撃し、これを撃破します。
張遼が陳蘭を討伐した際には、臧覇は別軍を率いて皖に至り、呉の将軍である韓当を攻撃しました。
これによって、孫権が陳蘭を救援することを妨げようとしたのです。
すると韓当は兵を臧覇に差し向け、迎え撃ってきました。
臧覇は逢龍においてこれと戦うと、韓当はさらに兵を出し、夾石で臧覇を待ち受けさせます。
臧覇はこのような、度重なる呉軍の攻撃を退けて打ち破り、舒に帰還しました。
呉軍を打ち破る
孫権は数万の兵を乗船させ、舒口に派遣して陳蘭を救援しようとします。
しかし臧覇の軍が舒に駐屯していると聞くと、引き返しはじめました。
臧覇は夜のうちにこの軍勢を追跡し、明け方までに百里(四十キロメートル)以上を行軍します。
そして前後から呉軍を挟み撃ちにして攻撃すると、呉軍は追い詰められ、船に乗ることもできず、多くの兵士が水に飛び込むはめになりました。
このため、呉は陳蘭を救援することができず、張遼によって打ち破られています。
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