曹操からの指令を待ち、評価される
臧覇はその後、孫権を討つために濡須口の戦いに従軍しました。
そして張遼とともに先鋒を務めましたが、やがて長雨にみまわれます。
本隊は先に撤退しますが、水かさがさらに増していき、呉軍の船がじわじわと前進してくるので、残された将士はみな不安にかられました。
このため、張遼は撤退しようとしますが、臧覇はこれを止めて述べます。
「公(曹操)は明敏な方です。我らを見捨てるようなことを、どうしてなされましょうや」
果たして翌日になると、撤退の命令が曹操から届きました。
張遼は帰還すると、このことを曹操に語ります。
曹操は臧覇の態度を評価し、揚威将軍に任命し、仮節(軍事裁量権)を与えました。
後に孫権が降伏したので、曹操は帰還しましたが、臧覇を夏侯惇らとともに居巣に駐屯させています。
曹丕の代では都に留め置かれる
曹操が亡くなり、曹丕が魏王に即位すると、臧覇は鎮東将軍になり、武安郷侯に爵位が進みました。
また、都督青州諸軍事にも任命されます。
曹丕が皇帝に即位すると、開陽侯になった後、良成侯に変えられています。
その後、曹休とともに呉軍を討ち、洞浦において呂範を打ち破りました。
それから執金吾(都の警備長官)に任命され、位が特進(三公待遇)となり、都に留め置かれるようになります。
軍権を取り上げられた理由
かつて曹操が亡くなった際に、臧覇の配下の青州兵たちが勝手に立ち去るという事件が起きていました。
また臧覇が「朝廷は私の意見を聞き入れてくださらないが、一万の兵を貸していただければ、長江の向こうを行軍して見せましょう」と気勢を示したことがありました。
これらの出来事から、朝廷は臧覇の動向に懸念を抱くようになり、臧覇が来朝した際に、その軍勢を取り上げたのでした。
しかし全く信頼されなくなったわけではなく、軍事の問題が発生すると、曹丕はいつも臧覇に諮問していました。
やがて亡くなる
曹叡が即位すると、五百戸を加増され、以前のものと合わせて三千五百戸となりました。
やがて亡くなり、威侯とおくりなされます。
子の臧艾が後を継ぎました。
臧艾は青州刺史となり、少府(財務長官)にまで立身しています。
臧艾は亡くなると、恭侯とおくりなされました。
臧覇は何度も功績を立てたので、三人の子が列侯に封じられ、一人が関内侯に封じられています。
孫觀もまた立身する
臧覇が徐州で活動していたころ、孫観がその仲間となっていましたが、彼もまた活躍し、後に青州刺史、仮節にまでなっています。
そして孫権を討つために濡須口の戦いに参加しましたが、流れ矢が左足に命中して重傷を負いました。
しかしひるまずに戦い続け、傷のことを顧みませんでした。
このため曹操から、「国のため、我が身を大事にするべきではないか」とたしなめられています。
それから振威将軍に任命されましたが、傷がひどくなり、やがて亡くなりました。
臧覇評
三国志の著者・陳寿は「臧覇らは州郡を守り、威厳をもって統治し、恩恵をもたらした」と評しています。
臧覇は戦いに強いだけなく、配下を束ねる力を備えていたので、勢力を伸ばしていく時期の曹操にとって、重要な将の一人だったのだと言えます。
一方で晩年に軍権を奪われたのは、年を取って衰えたのに加えて、独断専行をしかねない危うさを朝廷から感じ取られたからでもあるようです。
