董允 費禕と親しみ、黄皓の台頭を抑えた良臣の生涯

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董允とういんは蜀の二代皇帝・劉禅の側近として活躍した人物です。

劉禅が皇帝としての道を踏み外さないようにかん言をし、そのおかげで、彼が存命のうちは、劉禅が過ちを犯すことはありませんでした。

そして宦官かんがん黄皓こうこうが権力を持てないように、にらみをきかせつつ、友人の費禕ひいを助け、蜀の国政にも携わります。

この結果、諸葛亮や蒋琬しょうえん、費禕らと並び称されるほどの存在になりました。

この文章では、そんな董允の生涯を書いています。

董允
【成都にある董允の塑像】

若くして劉禅の側近となる

董允はあざな休昭きゅうしょといい、蜀の掌軍しょうぐん中郎将(上級指揮官)・董の子供です。

生年は不明となっています。

劉備が劉禅を皇太子にすると、董允は選抜されて太子舎人とねり(警固役)となり、ついで太子洗馬せんば(書物の管理役)になりました。

そして劉禅が帝位を継承すると、黄門侍郎こうもんじろう(皇帝の側近)に昇進しています。

このように、董允は劉禅の側近として、蜀で立身していきました。

諸葛亮に宮中の監督を任される

蜀の丞相じょうしょう・諸葛亮は、魏を攻撃するために出征し、漢中に駐屯することになりました。

すると成都にある劉禅の側から離れることになりますが、劉禅が年若く、物事の是非を、的確に判断できないことを心配します。

そんな中、董允は公明正大を貫く人物であったので、諸葛亮は彼に宮中の諸事を任せようと考えました。

このため、次のように上奏しています。

「侍中の郭攸之かくゆうし、費禕、侍郎の董允らは、先帝(劉備)が選び出して陛下に残された者たちで、政治の規範や利害を考慮しつつ、進み出て忠言をつくすのが彼らの役目です。

宮中の事柄は、大小の区別なく、すべて彼らに相談なさってください。

必ず不備を補い、世に広く利益をもたらすことでしょう。

もしも御徳を高めるような言葉を発することができなければ、董允らを処刑し、その職務の怠慢を明らかになさってください」

このように述べ、董允らを推薦するとともに、厳しく職務を果たすように促したのでした。

それだけ、自分が側にいなくなった後の、劉禅のふるまいを危ぶんでいたのだと思われます。

董允と費禕と郭攸之

費禕は董允の友人であり、同じような職務についていましたが、諸葛亮は彼を参軍(軍事参与)にしたいと考え、宮中から自分の手元に異動させました。

そして諸葛亮は「自分の後は蒋琬に継がせ、その後は費禕に任せるように」と、言い残しています。

それほどに、費禕の才能は買われていたのでした。

一方で、董允は費禕に代わって侍中に昇進し、虎賁こほん中郎将を兼任し、宮中の警護を務める近衛兵の指揮をも担当します。

残る一人の郭攸之はおとなしい人柄だったので、ただ地位にあっただけで、さしたる働きはなかったようです。

宮中を引きしめる

郭攸之がそのようなあり様でしたので、劉禅に忠言をする役目は、董允が一人で引き受けました。

董允の物事に対応するやりかたは、皇帝に落ち度がないよう、失敗を防止するように努めつつ、過ちがあれば、それを正して救うという、侍臣のあるべき姿を保っています。

劉禅はいつも、美人を選び出し、それで後宮を満たしたいと望んでいました。

しかし董允は、古代においては、王の妃は十二人に過ぎなかったことを挙げ、「いま宮女は十分にそろっていますので、増やすのは適当ではありません」と主張し、これを承知しませんでした。

このために劉禅は、強く董允に気兼ねをするようになります。

この頃の蜀は、強大な魏と戦っていた最中であり、そのような状況下で、いたずらに宮女を増やして費用をかけるのは愚かなふるまいであり、董允がこれを止めるのは当然のことでした。

またこのことから、後に劉禅が蜀を傾けた理由が見えてきます。

劉禅は蜀という国が置かれていた状況を、きちんと理解できていなかったのです。

諸葛亮が心配をして特に董允を側に配置したのも、うなずける話です。

【次のページに続く▼】