張楊 大司馬にまでのしあがるも、部下に討たれた呂布の友人

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張楊ちょうようは後漢の末期において、河内で勢力を築いた将軍です。

へい州の出身で、呂布とも親しくしていました。

乱世の中で勢力を築き、やがて献帝を保護し、大司馬だいしばにまで立身します。

しかし仁愛が深い性格があだとなったのか、部下に裏切られて殺害されてしまいました。

この文章では、そんな張楊について書いています。

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雲中に生まれる

張楊はあざな雅叔がしゅくといい、并州の雲中郡の出身でした。

武勇に秀でていたために并州で採用され、武猛従事ぶもうじゅうじ(州長官の幕僚)になっています。

張楊は仁愛を備え、温和な性格で、人を威圧したり、刑罰を加えることがありませんでした。

召使いが謀反を企んだ時ですら、それが発覚すると、涙を流し、すぐに許して不問にするほどでした。

武人としては、だいぶ風変わりな性格だったようですが、こういったところが人徳となったのか、やがて乱世の中で、ひとかどの勢力を築くにいたります。

中央に出仕する

霊帝の末期になると、天下が混乱に見まわれました。

このため、霊帝は寵愛している宦官かんがん蹇碩けんせきを西園上軍校尉に任命し、都に駐屯させました。

そして四方を抑えようとし、天下の豪傑を招き寄せ、蹇碩の副将に任命します。

この中には曹操や袁紹も含まれており、みな校尉として蹇碩に属しました。

このような情勢下で、并州刺史の丁原ていげんは、張楊に軍を統率させて蹇碩の元に向かわせたところ、張楊は仮の司馬(指揮官)に任命されます。

こうして張楊は、中央に出る機をつかんだのでした。

并州に戻る

やがて189年に霊帝が崩御すると、蹇碩は何進かしんによって殺害されます。

何進は新たに皇帝になった少帝弁の外戚で、大将軍となって権力を握りました。

張楊は何進の命令を受ける立場となり、故郷の并州に帰還し、軍兵を募ります。

これはこの頃、何進が宦官勢力と抗争をしていたため、これに勝利するための戦力を必要としていたからでした。

何進が暗殺され、董卓が台頭する

并州で軍兵を募ると、千人あまりが集まりましたが、張楊はそのまま中央には戻らず、上党にとどまって山賊を討伐します。

そうこうしているうちに、何進が宦官たちに暗殺されてしまいました。

その後の混乱を董卓が制し、朝廷は彼が支配するようになります。

しかし董卓は暴政を行ったので、天下はさらに乱れるようになりました。

このため、張楊は董卓には従わず、配下の軍勢を率いて上党の太守を攻撃しましたが、攻め落とすことはできませんでした。

その後は諸県を略奪してまわるうちに、兵力は数千の規模となり、ひとかどの勢力を形勢するようになります。

この時期には、混乱に乗じて各地で数千から数万の勢力を築く群雄たちが現れましたが、張楊もまた、そのひとりになったのでした。

反董卓連合に参加する

やがて、山東(中国東部)の諸侯たちは董卓の討伐を目的として決起し、連合軍が形成されました。

名門出身である袁紹がその盟主となりましたが、彼が河内かだいにやってきたときに、張楊は合流しています。

そして匈奴きょうど(騎馬民族)の単于ぜんう(指導者)である於夫羅おふらも加わり、漳水に駐屯しました。

於夫羅に連れ去られる

やがて於夫羅は漢への反逆を起こそうと図りますが、張楊と袁紹は賛同しませんでした。

すると於夫羅は張楊を捕縛し、逃亡します。

このため、袁紹は武将の麹義きくぎに命じて追撃させ、ぎょうの南でこれを打ち破りました。

しかし張楊は解放されず、於夫羅はそのまま黎陽れいようにまで逃げ、度遼将軍の耿祉こうしを打ち破って勢力を盛り返します。

このようにして、張楊はしばらくの間、於夫羅に引きつれ回される日々を送りました。

河内太守となる

張楊はその後、於夫羅の元を脱しましたが、やがて董卓から建義将軍・河内太守に任じられます。

この頃に、董卓は反抗勢力を懐柔しようとして地位をばらまいており、その一環だったのだと思われます。

こうして張楊は地位が高まり、基盤を得ましたが、やがて大きな好機が巡ってくることになりました。

【次のページに続く▼】

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