皇帝を支援する
董卓は自らが擁立した献帝を長安に移住させ、そこを本拠地にしていました。
しかし呂布の裏切りによって討たれ、その政権は終焉しています。
その後、呂布もまた董卓の元部下である李確によって長安を追われ、献帝は李確の手に落ちました。
すると李確は董卓以上の暴政を行ったので、長安が著しく衰退します。
このため、献帝は側近とともに長安を脱し、東方に向かって移動しました。
この一行はたびたび賊に襲撃され、物資も不足して危機に陥りましたが、張楊はこの際に兵を引きつれ、河東の安邑県に参上し、献帝を支援します。
諸侯となり、さらに地位が高まる
この働きによって、張楊は安国将軍に任じられ、晋陽候の爵位も与えられました。
張楊は献帝を迎えて洛陽に帰ろうとしましたが、他にも献帝の元に集まっていた諸将、楊奉・董承・韓暹らに反対されたので、河内の野王県に引きあげています。
しかし196年になると、楊奉らは結局、献帝を連れて洛陽に還ろうとしました。
これは献帝の身柄を巡って、諸将の間で駆け引きがあり、張楊は身を引いた、ということだったのでしょう。
大司馬となる
しかし楊奉らは物資が欠乏しており、やがて食糧不足に陥ります。
これを知った張楊は食糧を用意し、道の途中で献帝を出迎え、ともに洛陽にたどり着きました。
張楊は諸将に向かって「天子(皇帝)は、天下のすべての人々のための存在であるはずだ」と言って、独占しようとしていることを戒めました。
そして「幸いにして公卿や大臣がおられるので、わしは外難に備えよう。
都にずっととどまるわけにはいかない」と言って、再び野王に戻っています。
ちなみに野王は、洛陽の少し北にありました。
このあたりの動きを見るに、張楊には献帝に対して誠実な態度を取っていたと言えます。
このためか、この後すぐに、張楊は大司馬の位を授けられました。
これは国軍の最高位であり、張楊の身分は一挙に高まったのでした。
地方の一武官が、短期間でここまで出世したところに、乱世がきわまっていたことが現されています。
呂布を支援できず、応援をする
張楊は呂布と同郷で、かねてより仲がよかったのですが、この頃に呂布は、徐州をめぐって曹操と戦っていました。
やがて呂布は曹操に本拠を包囲されてしまったので、張楊は呂布を救援しようとしますが、道を阻まれ、果たすことができませんでした。
このために野王の東の市場に出兵し、遠くから曹操を牽制するにとどまっています。
この結果、張楊は曹操と敵対する立場になりました。
殺害される
こうして張楊は、中央部で一定の勢力を持ちましたが、198年になると、部下の楊醜の手にかかって殺害されてしまいました。
楊醜は、張楊を殺害してその勢力を奪い、曹操に味方しようと考えたのです。
しかし、同じく張楊の部下だった眭固が楊醜を討ち、張楊の軍勢を引きつぎました。
そして北方に向かって袁紹と合流しようとしますが、曹操は史渙を派遣してこれを迎撃し、犬城で撃破します。
そして眭固は討ち取られ、結局のところ、張楊の勢力は曹操に吸収されてしまいました。
兎と犬
『典略』という書物に、次のような挿話が掲載されています。
眭固は字を白兎といいましたが、楊醜を討った後、射犬という土地に駐屯していました。
この時、巫が眭固に忠告し「将軍の字は兎ですが、この村の名は犬です。
兎が犬と出会えば、その勢いからして、必ず驚かされることになります。
急ぎここを去られた方がよいでしょう」と言いました。
しかし眭固はこれを聞き入れなかったので、その結果、戦死してしまった、という話になっています。
張楊評
三国志の著者・陳寿は「張楊は臣下に首をとられた。
州郡を支配しながら、匹夫にも劣る者たちであり、論じるほどの価値もない」と、公孫瓚や公孫淵、陶謙と並べ、厳しく評しています。
しかし張楊は危機に陥った献帝を助けようと努めており、諸将といたずらに争わず、その発言は道義にかなったものでした。
そのあたりを考慮すると、この評は適切ではありません。
一方で、問題のある部下を罰しないほど仁愛が深かったのは、欠点であったとも言え、このために最後は裏切られてしまったのかもしれません。
乱世には向かない人物だったと言えます。