劉禅は劉備の後を継ぎ、蜀の二代目の皇帝となった人物です。
諸葛亮ら、優れた宰相たちが統治していた時期には、問題なく蜀を保っていました。
しかし、やがて政治がわからない宦官を重用するようになり、国を傾け始めます。
そして宮中と蜀軍の分裂を招き、魏に成都を攻め落とされ、蜀を滅亡させてしまいました。
このため、劉禅は暗愚だったと批判されることが多くなっています。
この文章では、そんな劉璋について書いています。
【後世に描かれた劉禅の肖像】
荊州で生まれる
劉禅は字を公嗣といい、劉備の息子です。
207年に、荊州で誕生しました。
この頃、劉備は荊州牧(長官)・劉表の客将となっており、新野に駐屯し、曹操の侵攻に備えていました。
一方、曹操はこの年に北方の烏桓族の討伐に向かい、成功しています。
そして南の荊州に向かうにあたり、後顧の憂いを取り去りました。
このため、荊州が曹操に攻めこまれるのは、時間の問題となります。
母について
劉禅の母・甘夫人は沛の出身で、劉備が豫州を支配していた時期に妾となっています。
劉備は戦乱の中でたびたび正室を失っていましたので、甘夫人が奥向きのことを取り仕切りました。
それでも正室になれなかったのは、実家の力が弱かったからなのでしょう。
甘夫人は劉備に従って荊州におもむき、そこで劉禅を生んでいます。
荊州北部からの撤退
208年になると、曹操が大軍を動員し、荊州への侵攻を開始しました。
すると、かねてより病にかかっていた劉表が死去し、次男の劉琮が後継者となります。
この劉琮は、劉備に黙って曹操に降伏してしまったので、前線に駐屯していた劉備は、危機に陥りました。
劉備は襄陽を訪れ、劉琮と面会しようとしましたが、劉琮はおそれをなし、城から出てきませんでした。
このため、劉備は劉琮のことはあきらめ、劉表の墓参りをします。
そして受けた恩に感謝を表し、立ち去ろうとしました。
すると、10万もの荊州の人々が、劉備に同行することを希望します。
戦いもせずに降伏してしまった劉琮が失望を買い、危機の中で、劉表への信義を見失わなかった劉備に衆望が集まった結果、このような事態となったのです。
このため、劉備は彼らとともに南に向かうことにしますが、おおぜいが付き従ってきたので、行軍速度が著しく遅くなりました。
この集団の中には、劉備の妻子たちも含まれていましたが、やがて曹操の追撃を受け、危機に陥ることになります。
長坂の戦い
曹操は劉備が去ったと知ると、5千の軽装の兵のみを引きつれ、一昼夜で300里(120km)を駆け抜けるという強行軍によって、長坂で劉備に追いつきました。
この時、劉備はおおぜいの非武装の人々と一緒にいましたので、まともに交戦できる状態にはなく、張飛・趙雲・諸葛亮といった側近たちとともに、逃走をはかります。
そして妻子とははぐれてしまったのですが、劉備は趙雲に保護を頼みました。
すると趙雲は乱戦の中で、幼い劉禅を我が身に抱いて保護し、甘夫人も救出します。
こうしてまだ1才だった劉禅は、危ういところを逃れることができました。
なお、この翌年に甘夫人は死去しており、劉禅は2才にして母を失っています。
劉備が勢力を拡大する
その後、劉備は体制を立て直すと、呉の孫権と同盟を結び、赤壁の戦いで曹操を撃退します。
追い打ちをかけるようにして、曹操軍には疫病が蔓延し、死者が続出したので、曹操は北方に撤退しました。
この隙をついて、劉備は荊州南部の諸郡を攻略し、根拠地を得ることに成功します。
すると劉備の元に、荊州の優れた士人が集まり、兵力も増強されていきました。
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