劉禅 趙雲に救われて蜀の皇帝となるも、やがて滅亡に導く

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蒋琬が諸葛亮の後を継ぐ

諸葛亮が亡くなった後、魏延ぎえんが騒動を起こすなどして、いくらかの混乱がありましたが、諸葛亮の生前の言葉にそって、長史(副官)だった蒋琬しょうえんが新たに蜀の宰相となりました。

蒋琬もまた体制を整えると、漢中に駐屯し、魏を攻撃する機会をうかがいます。

先に、諸葛亮が涼州を陸路で攻撃して成功しなかったので、蒋琬は船に乗って漢川を下り、荊州北部を攻撃することを計画しました。

しかし帰路の確保が難しいことから反対意見が多くなり、蒋琬はこの計画をあきらめます。

諸葛亮でもできなかったことを、才能で劣る自分がどのように実現すればいいのか、思い悩むうちに蒋琬は病にかかってしまい、それを養うために涪に移動しました。

蒋琬は自分にかわり、将軍の姜維きょういに涼州方面の攻撃を担当させることを考えますが、やがて蒋琬が漢中を去った虚をついて、魏が攻撃をしかけてきます。

王平と費禕が魏軍を撃退する

この時、魏の大将軍である曹爽そうそうが、10万以上の大軍を動員して攻めこんできましたが、漢中を守る兵力は3万程度でしたので、防衛の成功が危ぶまれました。

しかし漢中の守将を務める王平は、劉備が設けておいた防衛網と、山中の要塞を活用し、魏軍を食い止める事に成功します。

そこに成都を出撃した大将軍・費禕ひいが救援に駆けつけたため、魏軍は攻略をあきらめて撤退しました。

こうして蜀は危機を脱し、劉禅自身は何もしませんでしたが、優れた臣下たちの手によって、その地位が保たれています。

蒋琬が亡くなり、費禕が後を継ぐ

やがて病が重くなり、蒋琬は246年に死去します。

蒋琬は、軍事的な成果はあげられなかったものの、統治者としては優れた能力を持っており、彼が宰相を務める間に、蜀の国力が減少することはありませんでした。

蒋琬が亡くなると、これもまた諸葛亮の生前の言葉に従って、費禕が三代目の宰相となります。

費禕もまた、統治者としては申し分のない資質を備えており、蜀の体制は、ひとまず安泰なままでした。

董允が亡くなり、黄皓が頭をもたげはじめる

しかし一方で、蒋琬と同じく246年に、劉禅が放埒に流れるのを押しとどめていた、董允が亡くなってしまいます。

劉禅は成長するにつれ、宦官の黄皓こうこうを寵愛するようになっていました。

黄皓は劉禅にへつらい、うまく取り入るだけの頭のよさを備えており、これによって気に入られるようになったのです。

しかし黄皓はただそれだけの男であり、政治や軍事のことは、何も理解していませんでした。

このため、董允は劉禅を戒め、たびたび黄皓をとがめ、好き勝手をさせないように、にらみをきかせていたのです。

このため、黄皓も思い切って悪事を働くことができず、地位が低いままだったので、蜀の宮中が乱れることはありませんでした。

しかしその董允が亡くなると、黄皓が頭をもたげはじめ、蜀はじわじわと傾いていきます。

費禕は国を保つことを重視する

この頃には、費禕が蜀軍を統括し、姜維がその次席となっていました。

姜維は大軍を動かし、魏と積極的に戦いたいと考えていたのですが、費禕はこれを許しませんでした。

費禕は、諸葛亮ですら魏を打倒できなかったのだから、それよりも才能で劣っている自分たちに、それができるはずがないと考えていたのです。

このため、いずれもっと優れた才能を備えた人材が現れるまでは、守勢に徹して蜀を保つべきだという方針をとっていました。

そして姜維には、多くとも1万の軍勢しか与えず、軍事行動を制限しています。

費禕のこうした態度によって、蜀は国力を損なうことなく、現状を維持し続けました。

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