費禕が暗殺され、姜維が蜀軍を主導するようになる
しかし費禕は253年になると、魏から蜀に降伏していた、郭脩という男に暗殺されてしまいました。
この結果、姜維が後を継ぎ、蜀軍を主導する立場につきます。
費禕による抑制がなくなった結果、姜維は毎年のように大軍を動員するようになり、小国である蜀の財政は、急激に悪化していきます。
宮中の変貌
また、宮中においては、黄皓が劉禅に取り入って、地位を高めていきました。
そして劉禅自身も、この頃には46才になっていたため、自ら国政に関わる機会を増やしていきます。
こうして宮中は、劉禅と黄皓が主導するようになっていくのですが、両者とも、国政のなんたるかを十分には理解しておらず、蜀の統治能力は衰えを見せ始めました。
たとえばむやみに大赦が行われ、社会の規範がゆるみ始めます。
また、董允に代わって劉禅の側近となった陳祇は、黄皓と結託して宮中の権力を握ります。
そして董允を貶める発言を繰り返したので、劉禅は自分が董允に軽んじられていたのだと思い込むようになり、董允のいましめを破り、遊興にふけるようになっていきました。
譙周に忠言を受ける
劉禅はこの頃から、宮殿を離れて遊覧にでかけたり、宮中の歌手や楽員の数を増やすなどして、贅沢をしはじめます。
このため、学者の譙周は、後漢の祖・光武帝の故事を持ち出し、君主が国費を用いて快楽を求めると、徳と人望が失われることを説きます。
また、皇帝は反乱などの変事が起きた際には、自ら対応しなければいけない立場なのだから、むやみに宮殿を離れてはいけない、といったことも述べました。
このことから、劉禅は周囲のいましめがなければ、たやすく堕落してしまう人柄だったことがうかがえます。
黄皓はこういったことをとがめず、好きにさせてくれるので、劉禅は気に入ったのでしょう。
劉禅は一度も兵を率いて戦場におもむいたことがなく、魏の脅威も実感としては知らず、平和な国の君主のように、のんきにふるまっていたのでした。
姜維への批判が強まる
こうして蜀の国内が乱れていく一方で、姜維はたびたび軍勢を繰り出し、魏との戦いに没頭します。
そして何度か勝利を収めたものの、魏の防衛網を崩しきることはできず、ついに段谷の戦いにおいて、1万以上の兵を損なう大敗を喫してしまいました。
姜維は毎年のように軍勢を動かすのに、蜀の領土を増やすことができなかったため、蜀軍の内部と、そして宮中からも批判されるようになっていきます。
姜維はもともと、魏に仕えていたのが、降伏して蜀に仕えるようになった人物でした。
このため、蜀における政治的な基盤が弱く、やがて姜維から軍権を剥奪するべきではないか、という意見が強くなっていきます。
姜維は黄皓の排除を試みる
そんな中、姜維は262年に成都に戻ると、劉禅に面会し、黄皓の排除を直訴しました。
これに対し劉禅は「黄皓は使い走りの召使いにすぎない。
先は董允が彼を嫌っていたが、わしはいつもそれを残念に思っていた。
君が気にかけるほどの男ではない」と答え、受け入れませんでした。
姜維は、枝が幹にすがるようにして、黄皓が劉禅の心の奥深くにまで取り入っているのをみて、排除は不可能だと悟ります。
姜維は成都に戻らなくなる
劉禅は姜維の訴えを受け、黄皓を謝りに行かせました。
姜維は黄皓と会うと、「前線で屯田を行い、そこに駐屯したい」と申し出て、宮中から加えられるであろう危害を、避けることにしました。
こうして蜀の宮中と前線の部隊との間に、大きな溝ができることになります。
こうならないよう、諸葛亮・蒋琬・費禕の三者は、前線と宮中の連携がうまくいくように体制を構築していたのですが、姜維はこれに失敗したのでした。
これについては、劉禅の責任が大きいと言えます。
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