劉禅評
三国志の著者・陳寿は「後主(劉禅)は賢明な宰相に政治を任せている時は、道理に従う君主だった。
しかし宦官に惑わされてからは、暗君となった。
伝に「糸に常なる色はなく、ただ染められるままになる」とあるのは、もっともなことである。
礼においては、君主が国家を継承した際には、年を越えてから改元をすることになっている。
しかし劉禅の代では、章武三年(223年)のうちに建興と改元している。
古代の事例と照らし合わせてみると、道理に合わない。
また、国に史官を置かず、記録官も設置しなかったため、事件の記載漏れが多く、災害の記録も乏しい。
諸葛亮は政治に熟達していたけれど、およそこうした物事については、なお周到ではないところがあった。
しかし、諸葛亮の12年の統治中には、年号を変えず、たびたび出兵しながらも、恩赦をみだりに行うことはなかった。
これは、卓越したことではないだろうか。
しかし諸葛亮が没してからは、このような体制もだんだんと欠けるようになり、その優劣の差がはっきりとしている」と評しています。
つまり、諸葛亮が存命のうちは蜀が引きしまり、劉禅が君臨していても治まっていたものの、その後はだんだんと、体制が崩れていったことを指摘しています。
劉禅自身は、劉備の子だから蜀の皇帝になった、というだけの人であり、主体性をもって蜀を導くことは、一度もありませんでした。
このため、優れた人材がいれば国が保たれ、そうでなくなれば滅亡させてしまったのです。
黄皓を用いていることから、人を見る目があったわけではなく、劉備と諸葛亮が残した人材に、支えられていただけだったこともわかります。
このような結果からすると、劉備の後継者選びは間違いだったことになりますが、子どもたちがみな幼かったことから、その中で最も年長である劉禅を、選ばざるを得なかったということなのでしょう。
一方で、劉禅は賢明ではないものの、決して悪人ではなく、臣下に対しても民衆に対しても、積極的に苦しめるようなことはしませんでした。
聖人というほどではないものの、善良で無害な人だったことは、確かだと思われます。
だからこそ、晋で生涯をまっとうできたのでした。
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