劉禅 趙雲に救われて蜀の皇帝となるも、やがて滅亡に導く

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安楽県公となる

劉禅が洛陽に到着すると、魏の皇帝によって安楽県公に封じられました。

領地は一万戸で、そのうえ絹を一万びき、奴婢を百人ほど与えられ、他の下賜品もこれと同様でした。

元一国の主として、ふさわしい待遇を受けたのだと言えます。

こうして劉禅を礼遇することで、旧蜀臣たちを魏に懐かせ、呉にも降伏を促そうとする意図があったのでしょう。

このようにして、降伏を勧めた譙周の見立てが、正しかったことが証明されたのでした。

劉禅が降伏したことで、蜀の民が戦火にみまわれることもなかったわけで、そのような視点からすると、劉禅と譙周の行いは正しかったのだと言えます。

一方で、漢王朝をさしたる抵抗もなく、あっさりと終焉させてしまったことについては、厳しく批判するむきもあります。

司馬昭との宴会

ある時、魏の実権を握る司馬昭しばしょうが、劉禅を招いて宴会を開いたことがありました。

そしてその席で、司馬昭は蜀の音楽を演奏させます。

劉禅のそばにいた人たちは、みなこのために、痛ましい思いにかられました。

しかし劉禅はひとり、喜んで笑っており、平然としていました。

この様子を見て、司馬昭は腹心の賈充かじゅうに対し、「人の情の無さに、これほどのものがあろうとは。

諸葛亮が生きていたとしても、この人を補佐して国を久しく保つのは、不可能だったろう。

ましてや姜維では、とても及ぶまい」と言います。

すると賈充は「そうであったからこそ、殿下は蜀を併合することができたのです」と答えました。

このようにして、劉禅はいくら年を重ねても、蜀を自分が背負っているという意識が乏しく、皇帝にふさわしい人間には、なれないままだったのでした。

結局は蜀を失うのが、その身にふさわしい運命だったのだと言えます。

郤正に諫められる

これとは別の日に、司馬昭は劉禅に「蜀を懐かしく思うことはありますか?」とたずねました。

すると劉禅は「ここは楽しいので、蜀を思い出すことはありません」と答えます。

これではあまりに不人情であり、当時の価値観である儒教の思想に反することにもなりますので、劉禅の人格が疑われることになります。

このため、郤正は劉禅と面会し、次のように言いました。

「もし、後に同じことをたずねられることがありましたら、涙を流しつつ、『先祖の墳墓がろう、蜀にありますので、西を向けば悲しくなり、一日として思い出さない日はありません』とお答えになり、目を閉じてください」

するとある時、司馬昭が同じ質問をしたので、劉禅は郤正に言われた通りにします。

司馬昭はそれを見て、「郤正の言葉に、何ともそっくりですな」と言って、かまをかけました。

劉禅は驚いて目をみはり「まことにおっしゃられる通りです」と答えたので、側にいた人たちは、みな笑いました。

このように、劉禅はたわいもない人だったのでした。

子孫や臣下が取り立てられる

劉禅の子孫で、候に取り立てられた者は五十人以上もおり、譙周や郤正も、晋の列侯となっています。

郤正はそれまでは身分が高くなかったのですが、蜀の滅亡後にも、劉禅に忠誠を尽くしたことが高く評価され、晋の時代になってから出世したのでした。

劉禅が穏当に魏や晋に従ったからこその結果であり、これもまた、一種の成果であるとは言えます。

劉禅はその後も平穏に暮らし、271年に洛陽で逝去しました。

享年は64でした。

劉禅地図3

思公しこうと諡され、六男の劉じゅんが後を継いでいます。

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