諸葛亮を父と思うようにと告げられる
この時、劉禅はまだ17才で、自ら国政を見られるような状態にはありませんでした。
劉備はこのため、劉禅を後継者としながらも、政務の全権を、最も信頼する諸葛亮に委ねることにします。
劉備は劉禅に対し、次のように詔を下しました。
「汝は丞相(諸葛亮)とともに仕事をし、父と思って仕えよ」
こうした措置によって、劉備の死後は諸葛亮が蜀を主導し、劉禅は皇帝として、その活動を承認する立場につくことになります。
劉禅の美点
劉禅には人よりも優れた才覚や、智謀といったものは備わっていませんでした。
しかし、猜疑心をまったくと言っていいほど持っておらず、臣下に大権を預けると、いずれ自分の地位が脅かされるのではないかと、疑うことはありませんでした。
このため、諸葛亮は思うままに蜀を統治し、魏との戦いに専念することができたのです。
古来から、優れた才能を持っていても、それゆえに君主に妬まれ、活動を妨害された人物は、数多く存在しています。
しかし、劉禅は有能な人物の働きを邪魔するようなことは一切せず、信頼して後押しすることができました。
それが劉禅が君主として、備えていた美点でした。
董允がお目付役となる
諸葛亮は劉禅がまだ年若く、すぐに皇帝として適切にふるまうことはできないだろうと考え、董允を侍中(側近)にし、お目付役として配置しました。
董允は公正かつ清廉な人格を備えており、劉禅に取り入って私欲を満たそうなどといったことは、決してしない人物でした。
董允は蜀の置かれた厳しい状況をふまえ、劉禅にたびたび忠言をしています。
たとえば、劉禅は美人を選び、後宮を満たしたいと望んでいました。
すると董允は、古代では、天子の妃は12人に過ぎなかった、という故事を持ち出し、増やすのは適当ではありません、と述べ、これを承知しませんでした。
蜀は強大な魏を打倒するという大義を抱き、常に戦時下に置かれた国です。
にも関わらず、劉禅が贅沢をしたり、遊びほうけることは戒めなければならなかったので、董允がにらみを聞かせ、劉禅がわがままを実行しないようにしていたのでした。
このように、劉禅は享楽的な性格の持ち主で、蜀は小国に過ぎず、緊張感をもって事に当たり続けなければならないということを、よくわかっていなかったようでした。
このあたりが、劉禅が暗愚だったとされる原因になっています。
諸葛亮の活動と終焉
諸葛亮は全権を預けられると、初めに蜀の経済力の向上に取り組み、農業を盛んにし、街道を整備し、発展のための下地を準備しました。
これが効果をあげはじめると、反乱を起こしていた蜀の南方に住む異民族たちを屈服させ、貢納をさせることで、さらに物資を充実させます。
そして自身が遠征に出ても、蜀の統治が滞らないように、留守政府の体制も整え、それから漢中へと出陣しました。
このあたりの段取りは実に優れたもので、諸葛亮が政治家としては、最良の人材だったことが証明されています。
諸葛亮はそれからたびたび北伐を実施し、武都を奪取し、張郃や王双といった魏の将軍を討ち取り、一定の成果をあげます。
しかし食糧不足によってたびたび遠征が頓挫したので、輸送力を強化し、屯田を開始してこの問題を解消しようとしますが、235年に病に倒れ、帰らぬ人となってしまいました。
李邈を処刑する
諸葛亮が死去すると、おおぜいの人が悲しみ、劉禅は白い喪服を身につけ、三日にわたって哀悼の意を表明しました。
すると臣下の李邈が、諸葛亮を誹謗する発言をします。
李邈は「諸葛亮は強力な軍勢を擁し、狼や虎のごとく、帝位を奪おうとする野心を燃やしていましたので、彼が死去したのは、喜ぶべきことです」という、根拠のないでたらめを劉禅に言い立てました。
諸葛亮の、自分に対する忠義をよく知っていた劉禅は、これを聞くと大変に腹を立て、李邈を処刑するようにと命じます。
劉禅が自ら処刑を命じたのはこの時だけであり、諸葛亮に対する敬愛が深かったことがうかがえます。
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