劉禅 趙雲に救われて蜀の皇帝となるも、やがて滅亡に導く

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呉に連れ去られそうになる

孫権はこのようにして、短期間で勢力を増した劉備を脅威に感じるようになり、妹を嫁がせ、友好関係の強化をはかりました。

しかし劉備が212年に、孫権を欺いて蜀に向かった頃から、両者の関係が冷えていくようになります。

このため、孫権は妹を呉に連れ戻すことにしました。

そして妹は、迎えに来た船団に乗って帰ろうとした際に、劉禅を連れ去ろうとします。

おそらくは人質にするつもりだったのでしょうが、趙雲と張飛が川を封鎖してこれを止め、劉禅を取り戻しました。

こうして劉禅は、またも趙雲の働きによって、難を逃れたのでした。

こういった事情があったので、劉禅は後に趙雲に対し、特におくりなをするようにと命じています。

諡とは、死後に与えられる名誉ある称号のことで、趙雲は順平候とされました。

王太子になる

219年になると、劉備は蜀と漢中を制し、さらに勢力を拡大します。

そして群臣たちの推挙を受けて漢中王となり、改めて曹操の打倒と、漢王朝の復興を目指すことを、天下に宣言しました。

この時、劉禅は12才で王太子になり、劉備の後継者となることが定まりました。

劉備とは46才の差がありましたが、おそらく、劉禅より前に生まれていた男子は、戦乱の中で失われていたのでしょう。

このために後継者が幼く、戦いの中で経験を積ませることができなかったことが、蜀の弱点となっていきます。

皇太子になる

やがて221年になると、曹丕が献帝から帝位を簒奪さんだつし、魏を建国しました。

こうして後漢王朝が滅亡しましたが、劉備はこの時、劉氏一族の中で、最も勢力を持った存在となっていました。

このため、漢王朝の宗廟そうびょう社稷しゃしょく(国家)を絶えさせないために、蜀漢の皇帝に即位することになります。

これにともない、劉禅は皇太子に取り立てられました。

下された詔

この時、劉備から劉禅に対し、みことのりが下されています。

「これ章武しょうぶ元年(221年)、五月辛巳かのみ(12日)、皇帝は述べる。

太子禅よ、ちん(私)は漢朝の運命が苦しみを受け、賊臣が簒奪を働き、社稷が主を失うという時節に遭遇した。

徳のある人や正義の士たちが、天の明らかな命を告げ、朕は漢の大いなる系統を受け継いだ。

いま、禅を皇太子として、宗廟を受け継がせ、つつしんで社稷を奉じさせる。

使持節しじせつ・丞相の諸葛亮を遣わして印綬を授けさせるゆえ、師傅しふ(先生)の教えを敬って聴き、一つの事を行って、三つの善を全て得るようにせよ。
(ここで劉備は、年長者に謙譲の態度を取り、父子・君臣・長幼の三つの善を得よと、儒教的な価値観を説いています)

努力せずにいてはならぬぞ」

このようにして、劉禅もまた、漢王朝を引きつぐ役目を担うことになったのでした。

劉備が呉に敗北し、病に倒れる

これよりほどなくして、劉備は呉に殺害された関羽の仇を討ち、奪われた荊州を奪還するため、遠征を開始しました。

しかし夷陵いりょうで呉の将軍・陸遜りくそんに大敗を喫し、大きな損害を負って撤退します。

そして呉との国境に近い永安に滞在しましたが、そこで病にかかってしまいました。

やがて時間が経過するにつれ、他の病気を併発するようになり、劉備の健康状態は、著しく悪化していきます。

223年になると、劉備は自分の死期を悟り、永安に諸葛亮を呼び、後事を託すことにしました。

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