魏が蜀への侵攻を計画する
こうした蜀の様子を見て取ると、魏は大軍を動員し、蜀を一気に攻略する計画を立てました。
「蜀は姜維一人を頼みとしているが、彼が遠く本拠から離れているのに乗じれば、勝利することはたやすい」
「姜維がしきりに国境を騒がせているが、蜀の国土は狭いので、民は疲弊し、財力は尽き果てているだろう」
というのが魏の見立てでしたが、これは的中していました。
魏は将軍の鐘会・鄧艾・諸葛緒の3名に、それぞれ10万もの大軍を預け、三方向から蜀に侵攻してきます。
姜維が危険を知らせるも、握りつぶされる
これほど大規模な軍事行動でしたので、姜維は敵の動きを事前に察知し、成都に危険を知らせていました。
「聞くところによりますと、鐘会が関中で出撃の準備を整え、侵攻の計画を練っているようです。
張翼と廖化に諸軍を指揮させ、陽安関の入り口と、陰平橋のたもとを守らせ、危険を未然に防いで下さい」
しかし、これを受け取った黄皓は、占い師の言うことをうのみにし、「敵は絶対にやってきません」と劉禅に告げました。
すると劉禅もまた、黄皓の言うなりになってしまい、何ら備えをしませんでした。
しかも、これを群臣たちに相談することもしなかったので、成都にいる者たちが、何も知らないままに、魏の侵攻を迎えることになります。
黄皓もひどいのですが、劉禅にもまた、軍事に関する判断力が、まるで備わっていなかったことがわかります。
こうして劉禅は自らの愚かさによって、蜀の滅亡を招き寄せることになりました。
鄧艾が成都に迫る
その後、姜維は初戦で敗北したものの、要害である剣閣に立てこもって堅く守り、鐘会につけいる隙を与えませんでした。
しかしその間に、鄧艾が剣閣の脇にある山中の悪路を突破し、成都方面に直行してしまいます。
こうして成都は危機に陥りましたが、この後に及んでも、防衛の備えをしていなかったため、街は混乱に陥り、住民たちが逃げ出す騒ぎが起こりました。
そして緜竹に諸葛亮の子・諸葛瞻らが向かって防戦をしますが、鄧艾に打ち破られ、諸葛瞻は戦死します。
このようにして成都の前衛が撃破されると、劉禅の身を守るものは、何もなくなりました。
意見が割れる
宮中にいた者たちは、あわてて対応を協議しましたが、呉を頼って東に逃亡する、蜀の南にある険阻な地に逃亡する、の二つに意見が割れます。
すると、光禄大夫(皇帝の側近)になっていた譙周が進み出て、劉禅に魏への降伏を説きました。
呉を頼って逃げれば、呉の皇帝に臣従することになり、帝位が失われる。
その上、いずれ呉が魏に降伏すれば、二度も降伏の屈辱を味わうことになる、と述べ、まず呉に降伏する案を否定します。
そして南に逃げる、という案に対しては、この方面には異民族が多く、長年に渡って財を搾取して軍事費として使ってきたので、蜀は恨まれている。
このため、成都を失って逃げこめば、まず間違いなく反乱が起き、魏に抵抗するどころではなくなり、暗に劉禅の命も危なくなると述べます。
一方で魏に降伏すれば、爵位と封土が与えられ、一定の身分は保たれると言い、これを推奨しました。
これに対し、魏が劉禅を礼遇するとは限らない、と譙周に反論する者がいましたが、譙周は、その場合は自分が都におもむき、魏の皇帝に道理を述べて説得する、と答えます。
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