簡雍は字を憲和といい、幽州の琢郡の出身でした。
劉備と同郷で、二人は若い頃からの知り合いです。
184年に黄巾の乱が発生し、劉備が挙兵すると彼についていき、一緒に三十年あまりも、各地を転々とすることになりました。
といっても戦場に出たわけではなく、劉備の友人として話し相手になりつつ、各地への使者を務めました。
簡雍は弁が立ったので、外交的な役割を担ったのです。
簡雍の本名
ところで、彼のもともとの姓名は耿雍でした。
しかし幽州の人は「耿」を「簡」と発音したので、そのまま発音に従って姓を変えたのです。
このように、簡雍はものごとにこだわらない性格の人だったのでした。
劉備の従事中郎となる
やがて劉備が荊州におもむくと、その時の劉備の官職であった、左将軍の従事中郎に任命されます。
従事中郎は将軍の側近の地位でしたが、この身分をもって、外交官として働いたのでした。
劉備は公孫瓚、陶謙、曹操、袁紹、劉表と、各地の群雄の元を渡り歩きましたが、それゆえに、各勢力とつながりを作る上で、簡雍のような存在は重要な意味を持ちました。
このため、他にも孫乾や糜竺などが同様の役目を務め、劉備に付き従っています。
劉璋を降伏させる
劉備が益州に攻めこむと、簡雍はその平定において、重要な役割を果たすことになります。
214年に劉備は成都を包囲し、領主の劉璋を追いつめました。
この時、まだ成都には3万の兵士と1年分の食糧があり、抵抗しようと思えば、まだまだそれが可能な状況にありました。
劉備は勇名を知られる馬超を傘下に収め、軍勢を与えて成都に駆けつけさせ、劉璋を圧迫します。
その一方で簡雍を成都に送り、劉璋に降伏を勧める役目を任せました。
簡雍は劉璋に会うと、のびのびとした態度で見事な論を展開し、劉璋に降伏を納得させます。
この時に劉璋が降伏したら、彼の身分と一族を守ると約束をしました。
劉璋は簡雍を信用し、同じ輿に乗って城を出て、劉備に降伏を申し入れています。
降伏を勧めにいって、それまで敵対していた相手に信頼されるのは容易なことではなく、簡雍が使者として優れていたことがわかります。
【簡雍に説得されて降伏した劉璋】
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