将軍となる
こうして劉備は益州の支配者となり、蜀が建国される道が開かれました。
劉璋を降伏させた功績によって、簡雍は従事から昭徳将軍に昇進します。
しかし将軍と言っても名のみであり、実際に兵を率いることはありませんでした。
簡雍と似た立場にあった孫乾や糜竺もまた、将軍位を得ていますが、同様の待遇でした。
彼らはこの頃には年老いて来ていましたので、栄誉は与えつつも、実務からは遠ざけられる処遇を受けたのだとも言えます。
彼らはみな劉備の賓友(敬うべき友人)にして、功労者として位置づけられました。
【簡雍は劉備とともに北東から南西まで、はるかに移動することとなった】
その後も気ままにふるまう
こうして簡雍は高い地位を得ましたが、かといってかしこまることもなく、気ままに日々を過ごしています。
劉備が臨席する場においても、足を投げ出して脇息(ひじをかける道具)にもたれ、だらしない服装をして、心のおもむくままにふるまっていました。
簡雍は自由人の気質を持っていたのです。
その彼が劉備にずっと従っていたのは、劉備が細かいことにこだわらない、おおらかな性格だったからでしょう。
そして諸葛亮ら、劉備の新しい幕僚たちに対しては、ひとりで長椅子を占領し、首を枕に乗せて横になったまま、話をするありさまでした。
簡雍は誰が相手であっても、自分を曲げてつきあうようなことはしなかったのです。
簡雍は劉備から賓友として処遇されていましたので、これをとがめられることもありませんでした。
ですがその一方において、政治の中枢からは外れた場所にいたのだとも言えます。
おそらく簡雍自身も、そういったところに入りたいとは、望んでいなかったでしょうけれども。
このあたりの様子からは、劉備の地位が高まり、国家を統治するための官僚組織が形成される中で、流浪の時代から劉備に仕えて来た者たちの役割が、終わりつつあったことも示されています。
簡雍の態度は、そういった流れに対する、反骨的な意味合いもあったでしょう。
機知に富んでいた
あるとき、益州が干ばつに見まわれたため、米をむやみに消費しないように、酒の醸造が禁止されたことがありました。
そんな中で、役人がある家を捜索して醸造用の道具を見つけ、それを没収します。
裁判官はその家の主を、醸造した者と同じように罰しようとしました。
簡雍はそれを知ると、劉備と一緒に散策に出た時に、意見を言うべきだと考えていました。
このため、一組の男女が道を歩いているのを見て、「あの者たちはこれから、淫らな行いをするつもりです。どうして逮捕なさらないのですか?」と劉備に言いました。
すると劉備は「どうしてそれがわかるのかね?」とたずねます。
簡雍は「彼らはその道具を持っているではないですか。醸造の道具を持っているのと同じです」と答えました。
すると劉備は大笑いし、醸造の道具を持っていた者の罪を問わないことにします。
簡雍は道具を持っているだけで、まだ醸造をしていないのに罰するのは厳しすぎるのではないかと、機知を働かせて指摘したのでした。
簡雍にはこのような才能があったので、三十年にも渡って劉備に話相手になることを求められ、外交でも活躍できたようです。
簡雍の没年は不明ですが、これから数年以内に亡くなったようで、以後は記録が絶えています。
簡雍評
三国志の著者・陳寿は「簡雍らはみな、見事な議論を展開し、その時代において礼遇された」と短く評しています。
簡雍は醸造の逸話のような人物であったため、おそらくは興味深い話をいくつも作り出していたはずなのですが、蜀の人物は記録が少ないため、それが伝わっていません。
このため、陳寿もあまり筆を割けなかったのでしょう。
彼のように、おもしろくとも傲慢で無頓着な人間が、曹操や孫権に用いられたとは考えにくく、劉備陣営ならではの人材だったのではないかと思われます。