諸葛亮は三顧の礼によって劉備に仕え、蜀の宰相となった人物です。
劉備の死後は蜀の全権を委ねられ、漢王朝を復興させるために力を尽くしました。
諸葛亮は蜀の内政を整え、軍を整備し、強大な魏の討伐に挑みます。
しかし成功を収める前に寿命がつき、志半ばで世を去りました。
この文章では、そんな諸葛亮について書いています。
【諸葛亮の肖像】
琅邪に生まれる
諸葛亮は字を孔明といい、徐州の琅邪郡、陽都県の出身でした。
181年に誕生しています。
前漢の時代に司隷校尉(朝廷の監察官)を務めた諸葛豊の子孫です。
諸葛氏の祖は、秦の打倒を目指した「陳勝・呉広の乱」の参加者で、その功績によって、子孫が漢王朝から取り立てられていました。
父の諸葛珪は、後漢の末期に太山郡の丞(副長官)になっていましたが、諸葛亮が幼い頃に亡くなっています。
このため諸葛亮は、叔父の諸葛玄の元で、兄の諸葛瑾や、弟の諸葛均とともに育てられました。
荊州に身を寄せる
諸葛玄はやがて、袁術によって豫章太守に任命され、諸葛亮たちを連れて赴任しました。
このように、諸葛氏の一族は後漢の時代において、地方の高官を務めることが多かったようです。
しかし朝廷は、改めて別の人物を豫章太守として任命し、諸葛玄に代わらせました。
袁術は勝手に皇帝を名のるなど、朝廷に対して反抗的な態度を取っていましたので、諸葛玄の身分は不安定だったようです。
このような事情により、諸葛玄はかねてより交際があった荊州牧(長官)・劉表の元に身を寄せることにします。
こうして諸葛亮たちも、荊州に住むようになりました。
隠者の暮らしを送る
やがて諸葛玄が亡くなると、諸葛亮は自ら農耕に携わるようになり、好んで『梁父吟』という、隠者の歌をうたって暮らしました。
この頃、諸葛亮は南陽郡の鄧県に住んでいましたが、荊州の中心地である襄陽からは、西に二十里(8km)ほど離れた場所でした。
諸葛亮の身長は八尺(約184cm)もあり、いつも自分を管仲や楽毅にたとえていました。
管仲と楽毅は、史記の列伝に記されるほどの優れた宰相と武将であり、諸葛亮は自分の才能に自信を持っていたのです。
しかし当時、人々はそれを認めることはありませんでした。
ただ、友人の崔州平と徐庶だけは、「まったくその通りだ」と言って認めています。
このように若い頃の諸葛亮は、知る人ぞ知る、といった存在だったのでした。
臥龍と鳳雛
そんな諸葛亮の存在が劉備に知られたのは、司馬徽によってでした。
司馬徽は荊州の名士でしたが、劉備と会ったときに、「時務の要点をつかむ者こそが英傑ですが、このあたりには臥龍(眠れる龍)と鳳雛(鳳凰の雛)がいます」と述べます。
劉備が「それは誰ですか」とたずねたら、司馬徽は「諸葛孔明と龐士元です」と答えました。
司馬徽は、諸葛亮と縁戚関係にあった龐徳(龐統の叔父)と親しく付き合っており、このために諸葛亮の才能を知っていたようです。
こうして諸葛亮の名が、はじめて劉備の耳に入ったのでした。
徐庶が劉備に推薦する
当の諸葛亮は、相変わらず郊外で隠者の暮らしを続けていましたが、友人の徐庶は、新野に駐屯する劉備のところに出入りするようになります。
そして劉備は、徐庶の器量を高く評価していました。
そのうちに、徐庶は諸葛亮と劉備を引き会わせたいと思い、「諸葛孔明は臥龍です。将軍は彼に会いたいと思いますか?」と劉備にたずねます。
すると劉備は「君が連れてきてくれないか」と答えました。
徐庶は「この人は、こちらから訪れれば会えますが、連れてくることはできません。将軍が馬車をまげて訪問されるのがよろしいでしょう」と告げました。
こうしたやり取りの結果、劉備は徐庶がそこまで言うのなら、と思ったようで、自分から諸葛亮に会いに行ってみることにします。
【次のページに続く▼】