減少する人材
こうして諸葛亮が重用されたのは、劉備からその能力を高く評価されていたこともありますが、一方ではこの時期に、急激に人材が失われていたことの影響もありました。
219年に関羽が荊州で敗死し、220年には法正と黄忠が死去します。
そして221年には張飛が部下に殺害され、222年には馬超が病死するなどして、蜀の中核を担う人材が、次々と世を去って行きました。
このため、諸葛亮の存在が際立つようになり、多くの職務を兼任せざるを得なくなっていったのです。
劉備が夷陵で敗北する
劉備はこのような状況下で、関羽の仇を討ち、荊州を奪還するために、呉への遠征を実行に移しました。
これには群臣の反対が多かったのですが、劉備はそれに耳を貸さず、荊州に攻めこみます。
そして序盤は有利に戦況を進め、荊州の中ほどにまで進軍しました。
しかし帯陣が長引き、陣が長大になって防備が薄くなった隙を陸遜につかれ、大敗を喫します。
諸葛亮はこの時、成都で留守を守っていましたが、「法孝直(法正)がいれば、きっとこのような危険は避けえたであろうに」と言って嘆きました。
法正は龐統の死後に劉備の側近となり、策謀や作戦面で劉備を支えていましたが、その彼がいなくなったことで、劉備は敗北してしまったのです。
劉備が重態に陥る
劉備は敗軍をまとめて撤退し、呉との国境に近い永安に滞在し、にらみをきかせていました。
しかし病にかかり、やがて重態に陥ります。
再起が困難だと悟った劉備は、諸葛亮を永安に呼び寄せ、後事を託すことにしました。
この時、劉備の後継者である劉禅はまだ17才で、すでに母もなく、ひとりで世に残されることになります。
こうした状況をかんがみて、劉備は諸葛亮に全権を託し、劉禅の父がわりとなって蜀を率いるようにと要請しました。
劉備の遺言
劉備は諸葛亮に、次のように告げます。
「君の才能は曹丕の十倍あり、必ず国家を安んじて、ついには大事を定めることができるだろう。
もしも後継ぎが補佐するに足る人物ならば、これを補佐してやってほしい。
もし才能がないのなら、君は自ら国を取るがよい」
諸葛亮はこれに対し、涙を流して言いました。
「臣は心から股肱(手足となる臣下)として力を尽くし、忠義と貞節を捧げましょう。
最後には命を捧げる覚悟です」
このようにして、漢王朝を復興させようとする劉備の志は、諸葛亮が継ぐことになったのでした。
劉禅と弟への遺言
劉備はさらに詔を下し、劉禅を戒めます。
「汝は丞相とともに仕事にあたり、父と思って仕えよ」
さらにその弟の劉永にも、次のように言い残しました。
「わしの死後、おまえたち兄弟は丞相を父と思って仕え、大臣たちが丞相に協力して事をなすようにしむけよ」
このようにして、劉備は諸葛亮が活動をしやすくなるように、最大限に配慮をしてから亡くなったのでした。
蜀の全権を握る
劉禅が即位すると、諸葛亮を武郷候に封じ、幕府を開いて政務を取り仕切らせます。
しばらくすると益州の牧(長官)も兼務することになり、政治は大小の事柄を問わず、すべて諸葛亮が決定するようになりました。
蜀は益州のみを支配する小さな国でしたので、諸葛亮に全権を集中させ、効率的に魏と戦える体制を構築していったのだと言えます。
しかしながら、諸葛亮に卓越した才能があったとは言え、龐統や法正のように、特定の分野では並び立てるほどの人材は、払底していたということでもあります。
また、高名な将軍たちもほとんどが失われており、この時期、外部からは劉備が亡くなった以上、蜀には外征ができるような人材は、もう残っていないだろうと思われていました。
それでいて、蜀の十倍近い国力を持つ魏を打倒する宿願を、劉備から受け継いだのですから、諸葛亮は、大変に困難な立場に置かれたことにもなりました。
しかし諸葛亮はこれにひるまず、全力を尽くして達成しようと、挑み始めます。
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