諸葛亮孔明 漢王朝の復興を目指し、魏に戦いを挑んだ蜀の宰相

スポンサーリンク

五丈原で死す

諸葛亮は司馬懿と対陣すること百日あまりが経過した頃、司馬懿が予測した通り、8月に病に倒れてしまいます。

そしてもう長くないことを悟ると、側近の姜維や楊儀らに、全軍を撤退させることを命じました。

また、自分の死後に魏延が命令を聞かなくなることを予測し、そうなった場合には置き去りにして撤退するように、とも言い残します。

この予測は的中し、魏延は諸葛亮の死後に、独断に走って騒動を起こし、あげくに討ち取られています。

諸葛亮は倒れてもなお、頭脳は明晰なままでしたが、回復はならず、そのまま死去しました。

享年は54でした。

こうして諸葛亮もまた、志半ばで世を去ることになります。

諸葛亮の死

死せる孔明、生ける仲達を走らす

姜維や楊儀らは、諸葛亮の命令通りに、軍勢を整えて撤退を開始しました。

すると周辺の民が司馬懿にそのことを急報したので、司馬懿は追撃をかけてきます。

これを見た姜維は軍旗を返し、太鼓を打ち鳴らし、司馬懿に立ち向かおうとする様子を見せました。

すると司馬懿は警戒して引き下がり、あえて近づこうとはしませんでした。

こうして姜維と楊儀はそのまま撤退し、谷に入ってから諸葛亮の喪を発表しています。

この様子を知った民衆は「死せる孔明、生ける仲達ちゅうたつ(司馬懿)を走らす」という言葉を作り、言いはやしました。

ある者がこれを司馬懿に報告すると「わしは生者を相手にすることならできるが、死者を相手にするのは苦手なのだ」などと言いました。

司馬懿にとって諸葛亮は、正面から戦って勝利を収めることができなかった、唯一の相手となりました。

撤退をしたのは、万が一諸葛亮が生きていたら、と警戒したからなのでしょうし、魏の国力は蜀の十倍もあり、率いる兵が多いにも関わらず、このような様子だったのですから、諸葛亮の方が司馬懿よりも、将器が上まわっていたのだと言えます。

しかし無理をして敗北を重ねなかった司馬懿は、賢明な人物ではありました。

天下の奇才

蜀軍が撤退すると、司馬懿は諸葛亮の陣営や砦があったところを視察してまわり、「天下の奇才だ」と感想を述べました。

諸葛亮は、陣営や砦をつくる際には、その設計を自ら行い、防御施設だけでなく、井戸やかまどをどこに配置するか、そしてかわやをどこに設けるか、といった細部まで定めていました。

諸葛亮は政治でも軍事でも、自分が関わることについては、どこまでも精密に、入念にやり遂げなければ気がすまない性格で、そして、誰よりもうまくやりこなしてしまえる才能を持っていました。

それゆえに、やがて過労に陥り、早く亡くなってしまったのだと言えます。

一度は部下から、「もっと人に仕事を任せてください」と忠告を受けたことがあったのですが、そのあたりの性格は、生涯変わらなかったようです。

また同時に、抱えている任務の重さが諸葛亮をそのように駆り立てた、という面もあったでしょう。

定軍山に葬られる

諸葛亮は最後までその周到さを発揮しており、自分の葬らせ方も細かく指定していました。

漢中にある定軍山ていぐんさんに自分を葬らせるように命じ、山を利用して墳墓をつくらせ、塚はひつぎが入れるだけの広さにさせました。

そして、その時に着用していた服に身を包ませ、墓に納めるための副葬品は用いさせませんでした。

手間をかけさせず、簡素に葬られることを、諸葛亮は望んだのです。

【次のページに続く▼】