魏が漢中を攻撃しようとする
230年になると、魏は司馬懿を西城から、張郃を子午から、曹真を斜谷から、それぞれに進軍させ、漢中を攻撃しようとしてきます。
諸葛亮は出陣してこれを待ち受けましたが、大雨が降って道路が遮断されたため、魏軍は撤退しました。
一方において、この年のうちに魏延が陽谿で郭淮を打ち破っており、戦いは休むことなく続いています。
そのような状況下で、諸葛亮は次の手を打つことにしました。
祁山を攻撃し、司馬懿と対決する
諸葛亮は再び軍備を整え、食糧を輸送する体制の強化をはかります。
諸葛亮は機械の発明も得意としており、連弩という、一度に十本の矢を放てる弩を作りました。
また、木牛という機械仕掛けで動く、食糧輸送用の車を作り、実戦に用いています。
そして231年になると、再び祁山に出撃し、魏軍と対峙します。
この時、諸葛亮は鮮卑族の軻比能を招き寄せると、軻比能は呼応して出撃してきました。
一方、魏では西方を守っていた大司馬の曹真が病気にかかっていたので、代わって荊州にいた司馬懿がやってきます。
こうして諸葛亮と司馬懿が、初めて対決することになりました。
司馬懿が進撃してくる
司馬懿は四千の精鋭に上邽を守らせると、他の軍勢を全て繰り出し、西方にある祁山の救援に向かわせます。
これに対して張郃は、軍勢を雍と郿に分けて駐屯させ、後方に待機させることを進言しました。
すると司馬懿は「先行した軍だけで敵軍に対抗することが可能なら、君の言うことは正しい。
もしも対応できず、前後に分断されると、これは楚の三軍が、黥布によって打ち破られたのと、同じ結果を招くことになる」と述べ、各個に撃破されぬよう、そのまま進軍しました。
諸葛亮が魏の先鋒を撃破する
諸葛亮は軍を駐留部隊と攻撃部隊に分け、自ら司馬懿を迎撃するために、上邽に向かいます。
すると郭淮らが攻撃してきますが、諸葛亮はこれを撃破し、ついで、その地の麦をおおいに刈り取って食糧を得ました。
そして上邽の東で司馬懿と対戦しましたが、司馬懿が軍兵を引き下がらせ、要害に立てこもったため、交戦することができませんでした。
このため、諸葛亮は撤退しています。
司馬懿は慎重に動く
司馬懿は諸葛亮と対峙はするものの、直接戦おうとはせず、慎重な対応に終始しました。
司馬懿は速攻を得意とする将軍だったのですが、諸葛亮に対しては、それは通用しないと見切っていたのでしょう。
常に堅固な陣営を構え、智謀に長けた諸葛亮に攻撃をしかけるのは、困難だと判断していたのでした。
司馬懿もまた柔軟な対応力を持っており、手強い相手だったと言えます。
司馬懿は諸葛亮の後を追う
諸葛亮が引きあげると、司馬懿はその後を追って鹵城にやって来ました。
すると張郃が、「こちらが攻撃をしかけないので、蜀軍は長期計画を立て、このあたりを占拠する気になっています。
それにゆさぶりをかけるため、奇襲部隊を編成し、背後をつく構えを見せた方がよいでしょう。
そうでなければ、民の失望を買うことになります」といったことを進言しました。
しかし司馬懿はこれを取り上げず、そのまま軍をまとめて諸葛亮の後を追いましたが、またも山上に登って堀を作り、戦おうとしないままでした。
司馬懿への批判が高まり、攻撃してくる
このようにして、諸葛亮に迫りながらも、近づくと山上に引っ込んでしまう司馬懿のふるまいは、臆病だとして批判を受けることになります。
魏の重臣である賈詡や魏平は、司馬懿に何度も戦うことを要請しました。
この時、司馬懿は「公は蜀を虎のように恐れておいでです。
このままでは世間の笑い者になりますぞ」と告げられ、おおいに悩まされました。
そして諸将もまた戦うことを求めたので、主戦論を抑えきれなくなり、ついに攻撃をしかけることを決意します。
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