諸葛亮の創造力
諸葛亮には生まれつき工作の才能がありましたが、ある時、連発式の弩を作り、これを元戎と名づけました。
そして八寸(約16cm)の鉄の矢を作り、一つの弩で十本のこの矢を発射できるようにします。
この記述からして、相当に強力な兵器だったようです。
また、木牛や流馬を作って輸送力の強化をはかったのも、すでに述べた通りです。
『諸葛亮集』という文集に、木牛についての詳細が記されています。
「木牛は、腹部は方形、頭部は曲線形で、一本の脚に四本の足がついている。
頭部はうなじの中に入り込み、舌は腹についている。
多くの荷物を載せられるが、走行距離は短く、大きな用途に適し、小回りが必要な仕事には向いていない。
単独で走行する時は数十里(10〜20km程度)、多数で走行するときは二十里(8km)を行く。
曲線部が牛の頭部をなし、対になって並んでいるのが牛の脚、横になっているのが牛のうなじ、転がるのが牛の足、覆っているのが牛の背で、方形になっているのが牛の腹、垂れ下がっているのが牛の舌、曲がっているのが牛の肋骨、刻まれているのが牛の歯、立ってるのが牛の角、細いのが牛につける首ひもで、手に取るようになっているのが牛のしりがい(後部につなぐひも)である。
牛は二本のながえ(牛車につけられる、前方に突き出た二本の棒)に接続し、人が六尺(約138cm)進むと、牛は四歩あるく。
一年分の食料を積んで、日に二十里走行し、人の労力はそれほど必要としない」
この後には、流馬の各部品の大きさについて詳細に記されているのですが、設計図が残っていないため、現在ではそれらが何を意味するのかは、不明となっています。
いずれにしても、諸葛亮は精密に設計をして、これらの機械を製作し、実用しています。
諸葛亮は、技術者としても優れた手腕を持っていたのでした。
またそれ以外にも、兵法を応用し、八陣の図を作成しましたが、いずれも要領を得ており、優れたものだったようです。
諸葛亮は何事に対しても、工夫を凝らして改良を試みずにはいられない性格の持ち主だったのでした。
諸葛亮の祭祀
諸葛亮が亡くなったばかりの頃、あちこちから霊廟を建立したいという請求がありましたが、朝廷は礼の秩序を理由にして、これを許可しませんでした。
このため、人々は季節の祭りにかこつけて、私的に道ばたで祭祀を行うようになります。
「霊廟を成都に設けるべきです」と進言する者もいましたが、劉禅はこれに従いませんでした。
成都には劉氏の宗廟があり、その側に臣下である諸葛亮の廟を設けるのは、不適当だったからです。
しかし諸葛亮の人望を思うとないがしろにはできず、このために劉禅は悩まされていたのでした。
こうした状況を見て、歩兵校尉の習隆や、中書郎の向充らが、共同して上表をしました。
「臣どもは、周の人々が召伯(功臣)の徳を慕い、甘棠の木を伐らず、越王が范蠡の功績を重い、金を鋳て像を設置させたと聞いています。
漢が興って以来、小さな善事、小さな徳義によって絵に姿を描かれ、霊廟を立てられたものは数多くいます。
ましてや、諸葛亮の徳義は遠近に渡って模範とされ、勲功はこの末代をおおっています。
王室が破滅しなかったのは、実にこの人のおかげだったのです。
それなのに、蒸や嘗(冬と秋の祭祀)が個人の門内で行われているだけで、霊廟も像も建てられていません。
民衆が巷間で祭り、異民族が野で祭るだけとなっています。
これは徳や勲功に思いをはせ、ありし者を追憶するやり方からはずれています。
いまもし、民の心情にことごとく従うのであれば、祭祀はけがされ、規範がなくなります。
これを都に建立するのは、宗廟に近すぎることになります。
これが、陛下のお心が迷われる理由でしょう。
臣どもの愚見では、彼の墳墓の近くに建立するのが妥当ですので、沔陽にこれを建て、親族に、時節に応じて祭らせるのがよいと思います。
祠を祭りたい思っている元の部下たちには、霊廟に行くだけに制限し、個人の勝手な祭祀はやめさせ、正しい礼が崇められるようにしてくださいませ」
劉禅はこの意見に従い、263年の春になってから、ようやく沔陽の地に諸葛亮の霊廟が建立されています。
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