諸葛亮孔明 漢王朝の復興を目指し、魏に戦いを挑んだ蜀の宰相

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鐘会が諸葛亮の霊廟を尊重する

この年の秋になると、魏は大軍を動員して蜀に攻めこんできました。

そして魏の将軍・鐘会しょうかいは沔陽にさしかかったところで、諸葛亮の霊廟を祭ります。

そして将兵に命令を下し、諸葛亮の墳墓の近くでは、牧草を刈ったり、薪をとったりすることを禁じました。

蜀を占拠し、統治していく上で、人々に敬愛されている諸葛亮をないがしろにしない方がいいと、鐘会は判断したのでしょう。

こうした状態はその後も長く続き、蜀が滅んでから数百年がたっても、諸葛亮の祭祀は絶えていなかった、という記録があります。

諸葛亮が慕われた理由

諸葛亮が人々から慕われた理由について、三国志の著者・陳寿は次のように書いています。

「諸葛亮は、外は東呉と連盟し、内は南越を平定して、法律を作り制度をしき、軍隊を整備し、技術や機械を作る巧みさを極めた。

そして法や教えは厳格かつ明哲で、信賞必罰、悪事がなければ決して罰さず、善事がなければ顕彰することはなかった。

このため、官吏は悪を容認せず、人々は自ら努力しようと心がけ、道に落ちているものを拾う者もなく、強者が弱者を侵害することもなくなり、風俗は教化され、世は粛然とした」

このようにして、諸葛亮はできたばかりの蜀を国家として整備し、善政をしいて治安のよい、暮らしやすい国を作り、それゆえに崇敬を受けたのでした。

その後の蜀

諸葛亮は生前のうちに、自分の後に宰相となるべき者を定めていました。

はじめに蒋琬が、その後は費禕が継ぐようにと言い残しており、この通りに実行されます。

そして彼らが健在なうちは、蜀は保たれていたのですが、253年に費禕が暗殺されると、傾き始めました。

費禕の後は、外征を姜維が行い、宮中のことは諸葛亮の子である諸葛せんや、樊建はんけんといった者たちが取り仕切るようになりました。

しかし諸葛瞻らは、劉禅に取り入って政治を壟断していた宦官・黄皓こうこうを抑えることができず、統治が乱れていきます。

そして姜維とも仲違いをするようになり、蜀は内部に問題を抱えるようになりました。

それを魏に見抜かれ、攻めこまれてしまったのです。

諸葛瞻の戦死

諸葛瞻は成都に魏の将軍・鄧艾とうがいが迫ってくると、緜竹めんちくに陣取ってこれを迎え討ちます。

すると鄧艾は手紙を送り「降伏したら、必ず琅邪王になれるように上表する」と告げ、寝返りを促しました。

諸葛瞻は激怒してこの使者を斬り捨て、鄧艾と戦います。

しかし大敗を喫し、討ち取られました。

諸葛瞻は父に比べると、才能では劣っていましたが、父と同じく蜀に忠誠を尽くした点は、評価されています。

諸葛京が取り立てられる

諸葛瞻の子の諸葛けいは、才能によって晋に取り立てられ、やがて郿の県令になりました。

そして晋の高官である山濤さんとうによって、次のように語られています。

「郿の令・諸葛京の祖父である諸葛亮は、漢末の動乱に遭遇し、中原から隔てられ、父子ともに蜀に在住いたしました。

天命をわきまえなかったとは言え、主君に対して心を尽くし、努力しました。

そして諸葛京も、郿を治めて称賛を受けています。

臣は、彼を東宮舎人しゃじん(皇太子の側近)に任じ、人道の理を明らかにし、りょう州・益州の世論にそうべきだと考えます」

梁州・益州の世論とは、諸葛亮の名声の余波がまだ残っており、その孫も優れているのだから、もっと取り立てるべきだとする意見のことだと思われます。

諸葛京はこのようにして、敗戦国出身だったという立場だったにも関わらず、祖父の名声の影響を受け、やがて江州刺史(長官)にまで出世をしました。

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