諸葛亮孔明 漢王朝の復興を目指し、魏に戦いを挑んだ蜀の宰相

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孫権が皇帝に即位する

この年、呉の孫権が帝号を唱え、その群臣たちが、魏と蜀と同様に、尊い身分に昇ったことを伝える報告をしてきました。

これに対し、蜀の臣下たちは、これと交際するのは無益である上、名分も整っていないと批判します。

蜀は衰退した漢王朝を受け継ぎ、復興を目指す、という大義をもって帝号を唱えていました。

一方で、呉には帝位を名のれるだけの正当性がなく、この国と国交を結ぶのは誤りだと考える者が多かったのです。

このため、呉との同盟は破棄するべきだという意見が多くなりました。

諸葛亮の見解

諸葛亮はこの問題について、次のように述べています。

「孫権は久しく、僭上せんじょうと反逆の心を抱いていた。

わが国がその離反の動きを大目に見ていたのは、両面から魏を討つ役割を期待したためである。

いまもし、きっぱりと絶交をしたならば、わが方を必ずや深く敵視するだろう。

そうなれば兵を東方の呉の征伐にふり向け、彼らと勝敗を決し、その領土を併合してから初めて、中原に向かって魏と戦うことになる。

呉にはなお多くの賢人がおり、将軍と大臣が協力しあっていて、一朝に平定することはできない。

兵を駐屯させて対峙し、座して老いを待ち、北方の賊(魏)に利益を与えるのは、上策ではない。

昔、前漢の孝文帝は、匈奴きょうど(異民族)に対して身を低くして接し、先帝(劉備)は寛大にも呉との同盟を結ばれた。

みな臨機応変の処置であり、遠大に将来の利益を考えられたからで、匹夫ひっぷ(ただの一匹の男)のように、感情にまかせて行動されることはなかった。

いま論者たちは、孫権は三者の鼎立を利益とするだけで、わが国と力を合わせる気はないと考えている。

そして彼の希望が満たされたからには、岸にあがって魏と戦う意志はないだろうと主張している。

これ吟味すると、みな妥当なように見えるが、本当は正しくない。

なぜならば、孫権はその知力が対等でないために、長江を限りとして、自領に立てこもっているのである。

孫権が長江を越えることができないのは、魏賊が漢水を渡ることができないでいるのと同じで、余力がありながら、あえて取らないでいるのが利益だと考えているわけではない。

もしも我らが大軍で魏を討てば、呉は魏の土地を裂き、分け取りにして、後事を図ろうとするだろう。

うまくいかずとも、魏の民を略取し国境を広げ、国内に武威を示そうとするだろう。

ただじっと、状況を見守っているはずがない。

もし動かなかったとしても、わが国と親睦を結んでいる以上、我々が北方を征伐する場合、東方の情勢を心配する必要はなくなる。

そして魏の河南かなんの軍勢(東方の部隊)が、こぞって西方へやってくることは不可能になる。

この同盟が与える利益には、多大なものがある。

いまはまだ、孫権の僭上の罪を明らかにするべきではない」

このようにして、諸葛亮は孫権の利用価値を認め、帝号を名のったことを、ひとまず認めることにしたのでした。

正義のみにとらわれず、柔軟に国益を考える賢明さを持っていたのだと言えます。

諸葛亮は衛尉えいい陳震ちんしんを呉に派遣し、孫権が皇帝を名のったことを慶賀しました。

そして蜀と呉で魏を打倒し、中国を二分して支配することを条件とし、引き続き連携していくことにします。

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