呉と同盟を結ぶ
諸葛亮は呉と争っても利益がないことを理解しており、鄧芝を使者として同盟を締結します。
孫権は、劉備亡き後の蜀の行く末を危ぶんでいたのですが、鄧芝によって蜀と同盟を結ばなければ、いずれ魏に攻撃された際に、蜀もまた呉に攻めこんで領土を得ようとすることになる、と指摘されました。
そうなると、いずれ孫権は呉を失うことになるので、同盟を結ばざるを得ない状況に置かれていることを納得させ、鄧芝は交渉に成功したのでした。
こうして東西が手を結び、北の魏に立ち向かう、という構図ができあがります。
『正議』を表す
この時期、劉備を失って弱体化した蜀を降伏させようと、魏の華欽・王郎・陳羣といった老臣たちが、それぞれ諸葛亮に手紙を送り、魏に従うようにと要求してきます。
諸葛亮はこれに対して返書を送らず、『正議』という文書を表して、次のように述べました。
「その昔、項羽は徳義によらずに決起したため、中原におり、皇帝に匹敵する勢力をもちながら、結局は無惨に死に、永く後世へのいましめとなった。
魏はその手本をかえりみず、いまこれに続こうとしている。
自身は幸いにして逃れても、いましめは子孫に現れるであろう。
ところが二、三の者が、それぞれ老齢でありながら、いい加減な命令を受けて手紙を送り、陳嵩と張竦が、王莽(前漢から帝位を簒奪した後、滅びた人物)の功を称賛したようなまねをしている。
この場合もやはり、災禍が降りかかってくるのを免れようとしての行いなのだろうか。
昔、世祖(光武帝)さまが、古くに築かれた基盤の上に、新たな国(後漢)を創設されたとき、数千の弱兵を奮い立たせ、王莽の四十万もの強兵を、昆陽の郊外で打ち砕かれた。
道義を基にして悪を討伐する場合、軍勢が多いか少ないかは、問題とはならないのである。
孟徳(曹操)ともなると、そのいつわりによる勝利の力をもって、数十万の軍兵を率い、陽平において張郃を救援しようとしたが、勢いは窮まり、後悔にとらわれ、わずかに自らが脱出できただけだった。
精鋭を打ち破られ、漢中の地を失い、神器(帝位を現す器)をみだり奪ってはならないことを悟らされ、帰還の途中に、毒にあたって死亡した。
子桓(曹丕)は度外れた愚か者で、曹操の後を継いで漢王朝から帝位を奪った。
たとえ二、三の者が盛んに蘇秦や張儀(戦国時代の策略家)のようにまやかしの説を述べ立て、驩兜(古代の悪人)のように天を乱す言葉を上申し、唐帝(堯)の悪口を言い、禹・后稷をおとしめようとしても、『いらずらに文才や墨を浪費する』という語をなぞるだけである。
これは、大人や君子がなすべきことではない。
また、『軍誡』には『一万人が死を覚悟すれば、天下に横行できる』と記されている。
昔、軒轅氏は数万の軍勢を整えて四方を制し、海内を平定した。
まして数十万の軍勢を持ち、正道を基盤とし、罪ある者に臨めば、これに対抗できる者などいるだろうか」
このようにして、諸葛亮は少数であっても、大義を備えていれば、強敵に打ち勝って志を遂げることも不可能ではないと述べたのでした。
これには魏から寄せられる圧迫を退け、蜀の人々の士気を鼓舞する意図があったのでしょう。
体制を整える
諸葛亮は蜀の全権を握ると、まずは国内の充実に努めました。
まず、農業を振興して食糧生産力を高め、街道を整備して物流が円滑に行われるようにします。
そして成都に留守政府を設け、自身が遠征に出ても、国内の統治に問題が出ないようにと人員を配置しました。
諸葛亮は国内の統治と、魏を打倒するための遠征を一人で担うのですが、同時に二箇所には存在できないので、留府長史という地位を設置し、その者に留守を任せることにします。
これは劉備が遠征を行い、諸葛亮が国内を守っていた体制に似ています。
諸葛亮はこうした政治体制の構築と、国力を高め、善政をしいて民衆からの支持を集めることに長じていました。
戦略眼にも秀でていましたが、その本領は政治にあったのだと言えます。
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