諸葛亮孔明 漢王朝の復興を目指し、魏に戦いを挑んだ蜀の宰相

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諸葛亮が大勝を収める

司馬懿は5月10日になると、張郃に王平を攻撃させ、自身は真ん中の道を通り、諸葛亮を正面から攻撃しました。

これに対し、諸葛亮は魏延・高翔こうしょう呉班ごはんらを防御に送り、おおいに魏軍を打ち破ります。

三千の首級と五千の鎧、三千百張りの弩を獲得したと記されており、諸葛亮は司馬懿に圧勝したのでした。

司馬懿は当時、魏では最強格の将軍でしたが、それを打ち破ったことにより、諸葛亮の軍事能力が非常に高かったことが、証明されています。

司馬懿は「ほれ見たことか」とでも言いたかったでしょう。

諸葛亮は防衛戦を得意としており、その相手に正面から攻撃をしかけるのは愚策であり、だからこそ司馬懿はなかなか動かなかったのだと思われます。

ちなみにこの戦いは、正史では触れられていません。

正史は晋の時代に書かれ、司馬懿はその晋の祖となった人物ですので、記述には遠慮があったようです。

撤退するも、張郃を討ち取る

司馬懿は敗北後、陣に立てこもって出てこなくなり、やがて蜀軍は食糧が尽きてしまいます。

このために諸葛亮が撤退を始めると、張郃が追撃をかけてきました。

諸葛亮はこれを迎撃し、張郃を射殺して討ち取っています。

俗に「孔明の罠」などと言いますが、諸葛亮は追撃を退けるのを得意としており、しばしば敵将を討ち取ることに成功していました。

迎撃であれば、あらかじめ戦場を想定し、罠を張って待ち構えることができますので、周到に計画を立てるのが得意な諸葛亮にとっては、やりやすい戦いだったのでしょう。

張郃は魏軍の重鎮であり、彼を失ったことは、魏にとって大きな痛手となりました。

李厳が言い逃れをする

ところで、この戦いにおいては、諸葛亮に次ぐ高位にある、李厳りげんが食糧の輸送を担当していました。

そして李厳が「長雨のために食糧の供給が追いつかない」と連絡をしてきたため、諸葛亮は撤退しています。

しかし諸葛亮が戻ってくると、李厳は「兵糧は充分に足りているはずなのに、どうして撤退してきたのかがわからない」などと言い出します。

これは食糧供給を果たせなかった自分の責任を逃れ、進軍をしなかった諸葛亮に責任をかぶせようとしてのふるまいでした。

李厳を処罰する

李厳はさらに劉禅に上表し、「軍は退却したふりをして、それで賊軍を誘い出して戦いを交えるつもりです」と述べ、支離滅裂な対応をとります。

このため、諸葛亮は前後に渡って李厳が発した書簡を集め、その矛盾を指摘し、李厳を追求しました。

すると李厳は弁明ができなくなり、罪を白状して謝罪をします。

このような結果を受け、諸葛亮は李厳を用い続けるのは無理だと考え、地位を剥奪して庶民に落とし、梓潼しとう郡に追放処分としました。

李厳はかつて劉備から、諸葛亮とともに劉禅のことを託されたほどの人物だったのですが、異様に出世欲が強く、失敗によって処分を受けることを恐れたあまりに、このようなうろたえた行動を取ってしまったようです。

この李厳の話は、諸葛亮の死後にまた続きがあります。

体制を整え、再度出撃する

諸葛亮は、戦闘においてはたびたび勝利を収めましたが、食糧不足に悩まされ、国境を拡大することができないでいました。

これを解消するため、木牛に加えて流馬りゅうめを作って輸送力を高め、さらには屯田を行って、この問題を解消することにします。

まず、232年は兵士を休養させつつ農耕につとめ、食糧を蓄えました。

翌233年になると、諸軍に蓄えた米を運搬させ、斜谷に食料庫を整えさせます。

そして234年になると、諸葛亮は大軍を率い、斜谷を通って出撃し、流馬を用いて食糧輸送を盛んにさせました。

そして武功郡の五丈原に拠点を構え、司馬懿と渭南いなんで対峙します。

【次のページに続く▼】