諸葛亮孔明 漢王朝の復興を目指し、魏に戦いを挑んだ蜀の宰相

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食糧不足の問題

蜀は周囲を険しい山岳と河川に囲まれた地域で、このために防衛はしやすいのですが、外征をするのが難しい土地柄でした。

軍需物資を滞りなく輸送するのが困難で、出征した後に物資が尽きて、撤退せざるを得なくなることが多かったのです。

また、大国である魏に対抗するには、大軍を動員しなければなりませんが、蜀は小国であり、このために大軍の活動を長期間維持できるだけの物資を確保するのは、容易ではなかったという問題もありました。

これらのことが、諸葛亮が魏を打倒する上で大きな障壁となり、二度目の北伐において、課題が浮きぼりになっています。

諸葛亮の性格と、指揮官としての傾向

諸葛亮は緻密に物事を考え、準備を周到に行う人物でした。

それでいて公正で、人の意見に耳を貸す度量があり、広い視野を持っていましたので、政治家としては最良の人材だったと言えます。

しかし軍事においては、前線において好機を見いだし、機敏に決断を下すのは不得意な性格でもあり、この点が、諸葛亮の指揮官としての欠点でした。

最初の北伐において、天水などの諸郡が寝返った際に、本隊を急行させて抑えにかかれば、領土を拡大し、張郃を撃退することができていたかもしれません。

しかし諸葛亮は定めておいた行軍速度を守り、馬謖のみを先行させた結果、敗北してしまったのです。

他にも曹真がいたために、警戒して速度を変えなかった、という理由もあったのでしょうが、このような諸葛亮の慎重な性格は、敵地に乗り込んで領土を奪おうとする軍事行動においては、適していたとは言えません。

これは政治家として優れていることとは表裏一体で、人間には誰しも得意と不得意があります。

にも関わらず、政治も軍事も全てを諸葛亮が一人が担っていたわけで、その体制にはどこか無理があったのだと感じられます。

たとえば、前漢の祖となった劉邦は、戦略担当の張良ちょうりょう、内政担当の蕭何しょうか、軍事担当の韓信かんしんの、三人の優れた臣下を得たことで、天下を平定することができました。

しかし諸葛亮の場合は、一人でこの三人分を担当しなければならなかったわけで、いかに能力があるとは言っても、これをやりこなすのは相当に困難だったろうと思われます。

武都と陰平を攻略する

翌229年になると、諸葛亮は陳式ちんしきを出撃させ、武都ぶと陰平いんぺいといった西部方面を攻撃させました。

すると魏のよう州刺史・郭淮かくわいが、軍勢を率いて陳式を討とうとします。

このため、諸葛亮は自ら出撃し、建威けんいに布陣して郭淮を退却させました。

魏の援軍を追い払ったことで、武都・陰平の攻略が成功し、蜀はこの二郡を領土に加えています。

こうして三度目の北伐で、ようやく目立った成果を挙げることができました。

このあたりにはきょうていといった異民族が多く、蜀は彼らの力を取りこんでいくことになります。

第二・三次北伐

丞相に復帰する

この後で、劉禅から諸葛亮に対し、詔が下されました。

「街亭の役における敗戦は、馬謖に咎があった。

しかし君は自分の過ちだと述べ、自分を貶めることを強く望んだので、その気持ちに違えないよう、これを聴き入れたのである。

昨年は軍の威光を輝かせ、王双を打ち首にした。

今年はまたも出征して、郭淮を遁走させた。

氐・羌を降伏させ、二郡を回復した。

武威によって凶暴な敵を鎮圧し、その勲功は明らかである。

一方で、ただいま天下は揺れ動き、元凶はいまだ首をさらされていない。

君は大任を受け、国家の柱石であるにも関わらず、久しくみずからを損ない、地位を低く留めている。

これでは、君の大いなる功績を称揚し、輝かせることができない。

いま君を丞相に復帰させる。

君よ、辞退するでないぞ」

こうして諸葛亮は丞相に復帰し、引き続き魏との戦いを進めていきます。

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