劉馥 合肥を発展させ、孫権の侵攻を防いだ政治家の生涯

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劉馥りゅうふくは曹操に仕え、荒れ果てていた揚州北部の復興に尽力した政治家です。

合肥がっぴに拠点を構えて統治を行い、無人の地を堅固な城塞に仕立て上げ、孫権の侵攻を防ぎました。

この文章では、そんな劉馥の活動を紹介しています。

沛国に生まれる

劉馥はあざな元頴げんえいといい、州のはい国相県の出身です。

生年は不明となっています。

劉姓で、漢の高祖・劉邦の出身地である沛国の人ですので、漢王室の血縁者なのかもしれませんが、家系の詳細は不明となっています。

やがて董卓が台頭し、朝廷の統治力が衰えると、劉馥は動乱を避けて南の揚州に移住しました。

曹操に仕える

196年になると、劉馥は揚州北部を支配していた袁術の配下・戚奇せきき秦翊しんよくを説得し、曹操の陣営に鞍がえさせています。

すると曹操はこれを喜び、劉馥を司徒しと(大臣)のえん(属官)に任命し、朝廷に召し寄せました。

劉馥はこれに応じ、曹操に仕えるようになります。

揚州刺史に任命される

その後、袁術が勢力を失って横死すると、かわって孫策が台頭しました。

孫策は廬江ろこう郡の太守に、配下の李述りじゅつを任命するのですが、彼が上役である揚州刺史しし(長官)の厳象げんしょうを殺害したので、揚州の統治が乱れていきます。

そして賊の陳蘭ちんらん雷緒らいしょらが、数万の軍勢を集め、長江やわい河一帯を荒して回りました。

曹操は袁紹と対峙しており、北方にかかりきりの時期だったので、この事態に対応することができませんでした。

このため、劉馥なら任せられるだろうと考え、200年に新たな揚州刺史に任命しています。

単身で合肥に向かう

劉馥は曹操の命を受けると、たったひとりで馬に乗り、荒れ果てて住む者もいなくなった合肥の城におもむきました。

そしてそこに州庁を設置すると、陳蘭と雷緒を説得して帰服させ、指揮下に置きます。

袁術の配下の時といい、劉馥は人を説得するのが得意な人物だったようです。

そして彼らから献上品を受け取ると、それを元手にし、劉馥は合肥の復興にとりかかりました。

それから数年がたつと、劉馥が民に与える恩恵や教化の成果があがり、治安が改善されていきます。

やがて劉馥が善政をしいていることが、周辺の地域に知れわたるようになると、川や山を越えて身を寄せる流民が、数万人にも達しました。

こうして合肥の人口が回復し、復興が進んでいきます。

劉馥地図

学問を盛んにし、収穫量を増やす

いくらか余裕が出てくると、劉馥は学校を建てて学生たちを集め、学問を盛んにして教育水準を高めました。

そして屯田を行い、堤防を新たに築き、古くなったものは修復し、灌漑を行って農地を拡大します。

この政策が成功し、やがて役所も民衆も、財産を蓄積できるほどに豊かになりました。

防衛力を強化する

一方で、合肥以外の揚州の各地は、孫策の後を継いだ孫権が支配するようになり、勢力を拡大していきます。

劉馥は将来、孫権と戦いになることを見越して、合肥の防衛力を高める措置を取りました。

城壁や土塁を高く築き、木や石を積み上げ、草のむしろを数千万枚も編み上げ、魚の油を数千石も貯蔵します。

こうして劉馥は合肥を復興させ、豊かにし、防衛力も備えさせてから、208年に亡くなりました。

劉馥が合肥を統治していたのは8年間でしたが、その功績は長く語り継がれることになります。

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