龐徳は馬騰や馬超、曹操に仕えて活躍した武将です。
戦場では常に先陣を務め、果敢に敵を打ち破って名を高めました。
荊州で関羽と戦った際にも、その武勇によって恐れられますが、大雨によって危機に陥り、捕縛されてしまいました。
その際に、あくまでも降伏を拒んで処刑されたことから、死後に節義を称えられることになっています。
この文章では、そんな龐徳の生涯を書いています。
涼州に生まれる
龐徳は字を令明といい、涼州の南安郡豲道県の出身でした。
若い頃から郡吏や州の従事になっています。
190年ごろ、涼州で羌族や氐族が反乱を起こすと、将軍の馬騰に従って戦い、たびたび戦功を立てました。
そして次第に昇進し、校尉(中隊長)に就任します。
涼州は後漢の西部にあり、異民族が混在しているために反乱が起きやすく、これを討伐することで、出世する者が多くなっています。
龐徳は辺境を守る軍人として、少しずつ頭角を現していったのでした。
平陽に遠征する
203年ごろから、曹操は袁紹の子・袁譚や袁尚と戦うようになります。
すると袁譚が配下の郭援と高幹を派遣し、河東を攻撃してきました。
曹操はこれに対抗するため、司隷校尉の鍾繇に涼州の諸将を率い、郭援らを討伐するように命じます。
このころ、馬騰は鍾繇に従うようになっていたので、子の馬超を鍾繇の元に向かわせ、戦いに参加させました。
そして龐徳は馬超とともに従軍し、郭援に奪われた平陽の地で戦うことになります。
郭援を討ち取って名をあげる
龐徳はこの時、先鋒を務めて敵をさんざんに打ち破り、誰とも知らぬひとつの首級を獲得しました。
やがて戦いが終わると、「敵将の郭援が死んでいるのに、その首が見つからない」と将兵たちが言い合います。
龐統が思い当たり、遅れてふくろの中から頭を取り出すと、それを見た司令官の鍾繇が、声をあげて泣き出しました。
これは郭援が、鍾繇の甥だったからでした。
このため龐徳は謝罪しますが、鍾繇は「郭援はわしの甥ではあるが、国賊である。あなたが謝る必要はない」と言って、とがめませんでした。
ともあれ、こうして龐徳は大きな手柄を立て、その名を知られるようになります。
そして中郎将(上級指揮官)に昇進し、都亭候の爵位も授けられました。
さらに手柄を立て、馬超の配下となる
その後、弘農で黄巾賊の残党である張白騎が反乱を起こすと、龐徳は馬騰に従って討伐に参加します。
そして殽山で張白騎を打ち破りましたが、龐徳は戦闘のたびに敵をけちらし、陣地を攻め落とす手柄を立てました。
その武勇は馬騰軍の中でも最も優れている、とまで称賛されます。
その後、馬騰が都に召喚されて衛尉(宮殿の守備隊長)になると、涼州に残留した馬超の配下となりました。
馬超の反乱に参加するも、敗れて漢中に逃れる
211年になると、馬超は韓遂らと共謀し、十万もの兵を集めて曹操に反旗を翻しました。
龐徳も馬超に従い、反乱に参加しています。
間もなく曹操の討伐を受けますが、馬超は逆に曹操を襲撃して危機に陥らせるなど、その勇猛ぶりをいかんなく発揮します。
しかし曹操の軍師・賈詡のしかけた罠にはまって韓遂と仲違いをしてしまい、最終的に、馬超は曹操との戦いに敗れ去りました。
このため、龐徳は馬超に従って涼州の冀城に逃れますが、そこでも再び敗れ、漢中にまで流れて行くことになります。
そして馬超と龐徳は、漢中を支配していた張魯に従属しました。
【次のページに続く▼】