関羽の誘いを拒絶し、処刑される
龐徳は捕縛されても立ち尽くしたままで、関羽に対して膝を屈することはありませんでした。
なので関羽は「あなたの従兄は漢中にいる。
わしはあなたを将軍として取り立てるつもりなのに、どうして降伏しないのだ」と語りかけます。
すると龐徳は、関羽を激しく罵りました。
「子わっぱめ、降伏などするものか!
魏王(曹操)は百万の兵力を備え、その威光は天下にとどろいている。
おまえの主君の劉備などは凡才に過ぎず、魏王の敵には値しない。
私は国家の鬼になろうとも、賊の将にはならぬ!」
これを聞いた関羽は、龐徳を降伏させることをあきらめ、処刑しました。
子供たちは曹操や曹丕から厚遇を受ける
曹操は龐徳の死を知ると大変に悲しみ、彼のために涙を流しました。
そして二人の子供を列侯に取り立てています。
翌年に曹操が亡くなり、後継者の曹丕が魏王の地位に就くと、使者を龐徳の墓におもむかせ、諡を授けました。
その際に発せられた詔は、次のようなものでした。
「昔、先軫は頭を失い、王蠋は首を絶たれ、命を落として節義に殉じた。
それによって、彼らはそれぞれの時代で称えられた。
思うに候(龐徳)は、戦いにおいて剛毅果断を示し、危難において名をまっとうした。
その名声は満ちわたり、道義は古の勇者よりも優れている。
ゆえに私は彼を悼み、壮候と諡する」
そして曹丕は子の龐会ら、四人に関内候の爵位と、それぞれに百戸の領邑を授けました。
龐会は父に似て勇気があり、厳格で、中衛将軍にまで昇進し、列侯に取り立てられています。
龐徳と于禁
こうして龐徳は魏への忠義を貫いて死去しましたが、一方で同じような状況に置かれた于禁は、関羽に降伏していました。
そして荊州の江陵に抑留されたのですが、やがてこの地が孫権に占拠されたため、今度は呉に送られます。
その後、孫権が魏に臣従したため、于禁は帰還しますが、皇帝になった曹丕と面会すると、鄴に作られた曹操の墓に参拝するように言われました。
するとそこには、関羽が勝利し、それを龐徳が憤怒した様子でにらみつけ、于禁が降伏した様を描いた絵が用意されていました。
それを見た于禁は、面目なさと腹立ちのために病気にかかり、間もなく死去しています。
このように、龐徳は于禁との対比もあって、死後にその存在価値が高まっていくことになりました。
曹操の廟に祭られる
やがて243年になると、曹操の霊廟に功臣たちが祭られましたが、張遼や楽進、夏侯淵といった、曹操に長年仕えて活躍した将軍たちと並び、龐徳もまた祭られています。
龐徳が曹操に仕えていた期間は、わずか四年ほどだったのですが、忠誠を貫いて死去したことが、高く評価されたことがうかがえます。
忠実だった者を顕彰するのは、他の臣下たちに同じ行動を取るように働きかける作用があったことから、行われやすくなっています。
このあたりは劉備に忠義を尽くした関羽もまた、後世から顕彰されたのに似ています。
龐徳は自身の宣言通り、国家の鬼(英霊)になったのでした。
陳寿の評
三国志の著者・陳寿は「龐徳は命を投げ出して敵を叱咤し、周苛の節義を持っていた」と評しています。
周苛は劉邦の臣下で、敵対する項羽に捕らわれた際に、「上将軍に任じ、領邑三万戸を与えよう」と、大変な好条件で誘われた人物です。
周苛はこれを断り、「おまえこそ早く漢に降伏せよ! おまえなど漢王(劉邦)の敵ではない!」と項羽を罵倒したので煮殺されました。
龐徳が関羽に捕らわれた時、周苛とほぼ同じ発言をしていますので、たとえられるのにふさわしい人物だったと言えます。

