龐徳 関羽と戦い、節義を守って名を高めた勇将の生涯

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馬超と別れる

馬超は張魯に兵を借りて涼州に攻めこみますが、夏侯淵らに撃退されて評判が悪化し、漢中でも居場所を失ってしまいます。

このため、益州に攻めこんだ劉備を頼って漢中を去りましたが、龐徳は残留し、この時に馬超と別れ、そのまま張魯に仕え続けました。

馬超の変転の激しさに、さすがについていけなくなったのかもしれません。

曹操に降伏する

馬超が去った翌215年になると、曹操が漢中に攻めこんできます。

張魯は曹操には勝てないだろうと判断して抵抗せず、降伏して臣従を申し入れました。

この時に、龐徳もまた軍勢とともに降伏し、曹操に仕えるようになります。

曹操はかねてより龐徳の武勇を聞き知っていたので、立義将軍に取り立て、関門かんもん亭候の爵位を与えました。

領邑は三百戸でしたが、龐徳が反乱にくみしていた者だったことを考えると、かなりの厚遇を受けたのだと言えます。

これに龐徳は感謝し、曹操に報いなければならない、という気持ちを強めていきました。

関羽と対峙する

219年になると、えんの太守である候音こうおんが反乱を起こしました。

すると劉備軍の関羽が、候音に援軍を送り、魏の領内をかき乱そうとします。

このため、龐徳は曹仁とともに兵を率いて宛を攻撃し、速攻で陥落させて候音を斬り、動乱の芽を摘み取りました。

そして、そのまま南下してはん城に向かい、荊州南部から攻め上ってきた関羽と対峙しました。

龐徳地図2

疑いをかけられる

この頃に、漢中は劉備に奪われていましたが、そこには龐徳の従兄いとこ龐柔ほうじゅうがいて、劉備の臣下になっています。

このため樊城の諸将は、龐徳が従兄に内通して劉備陣営に寝返るのではないかと、疑いを抱きました。

これを受け、龐徳は「私は国家から恩を受けており、死を捧げてそれに報いなければならない。

私はみずから関羽と戦い、決着をつけるつもりだ。

私が関羽を殺さなければ、関羽が私を殺すこことになるだろう」と言い、決死の覚悟を示しました。

元より龐徳は節義のある人物でしたが、従兄のために疑われたので、そう言わざるを得なくなった、という面もあったでしょう。

関羽と戦い、白馬将軍と呼ばれて恐れられる

しばらく後、龐徳は宣言した通り、関羽と直接戦う機会を得ました。

その際に龐徳は矢を射かけ、関羽の兜の額のところに命中させています。

これには、さしもの関羽も肝を冷やしたことでしょう。

龐徳は常に白馬に乗っていたので、関羽軍の陣営では彼を「白馬将軍」と呼び、その武勇を恐れました。

大雨によって危機に陥る

曹仁は龐徳に命じ、樊城の北十里(4km)ほどの地点に駐屯させます。

すると十余日にわたって雨が降り続き、漢水が急に氾濫してしまいました。

このため、樊城周辺の平地には五、六丈(15〜18メートル)も水がたまり、龐徳はこれを避けて堤の上に登ります。

これを好機とみた関羽は、大船を用いて四方から堤を包囲し、激しく矢を射かけました。

龐徳は鎧を身につけ、矢を射返してこれに対抗します。

孤立するが戦い続ける

やがて龐徳の軍勢は危機に陥り、将軍の董衡とうこうや、部隊長の董超とうちょうらが降伏しようとしますが、龐徳は彼らを全員捕らえ、容赦なく斬り捨てました。

一方で、樊城への援軍にやってきていた将軍の于禁うきんは、大雨によって陣地が水没したので、抵抗をあきらめて関羽に降伏し、龐徳はすっかりと孤立した状況に陥ります。

それでも龐徳は力戦し、夜明けから日が傾くまで、果敢に戦い続けました。

関羽に捕らえられる

こうして龐徳は壮絶な戦いを続けたものの、関羽の攻撃はますます激しくなり、射返す矢も尽き、剣を振るって白兵戦を行わざるを得なくなります。

龐徳は督将とくしょう成何せいかに向かい、「良将は死を恐れて生き延びることはせず、烈士は節義を失ってまで生を求めないと言う。今日は私の死ぬ日だろう」と告げました。

龐徳の意気はなお衰えず、激しく戦い続けましたが、さらに水の勢いが増してきたため、軍吏や兵士たちは抗戦が不可能になったと判断し、みな降伏してしまいます。

このため、龐徳は配下の将たちとともに小舟に乗り、わずかに残った弓矢を携え、曹仁の陣営に撤退しようとしました。

しかし激しい水の勢いにあおられて船が転覆し、弓矢を失います。

そしてただ一人、船底を抱いて水中にいたところを、関羽に捕縛されてしまいました。

龐徳
【水中の龐徳を描いた絵】

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