外戚とは 三国志では何進が該当

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外戚がいせきとは、皇帝の母方の親族のことを言います。

古代中国では儒教の影響で、子は母親に強く敬意を払うべきだという思想が広まっており、皇帝の母親と、その親族たちが大きな権力を握ることが多くなりました。

特に、皇帝が即位した年齢が幼い場合には外戚の力が強くなり、時には皇帝の立場が脅かされることもありました。

三国志と外戚

三国時代の動乱の発生には、こうした外戚の存在が大きな影響を及ぼしています。

後漢の桓帝(在位 146-168年)の時代には、りょう太后が皇帝の母として実権を握り、兄の梁冀りょうきが大将軍となってそれを補佐していました。

しかしやがて、梁冀はより大きな権力を求めるようになり、勢力を拡大して専制的な体制を作り上げ、皇帝の存在をも脅かすようになります。

すると桓帝は、梁冀の排除を密かに企図するようになりました。

そして母の梁太后が崩じると、桓帝は宦官かんがん唐衡とうこうを呼び、梁冀を暗殺する計画を伝えます。

これを受け、五人の宦官たちが結束してクーデターを決行し、梁冀の殺害に成功しました。

宦官は皇帝の身辺に仕える使用人でしたので、外に情報を漏らさずに、謀略を進行するのに適していたのでした。

こうして桓帝は外戚を排除し、宦官を重用するようになりましたが、これがやがて後漢を傾かせることにつながります。

霊帝も宦官を重用する

桓帝の後を継いだ霊帝もまた、「十常侍じゅうじょうじ」と呼ばれた宦官たちを重用し、彼らに絶大な権力を与えました。

すると宦官たちは腐敗し、血縁の者や多額の賄賂を贈ってきた者たちに高い地位を与え、政治を乱してゆきます。

宦官に取り立てられた各地の長官は、民衆に重税を課して私腹を肥やすようになり、それに苦しめられた民衆は、結束して反乱を起こすようになりました。

霊帝に宦官の重用をやめるように、外戚や官僚たちが諫言するものの、霊帝は宦官に依存しきっており、決して態度を改めることはありませんでした。

それどころか、宦官の排除を計画した外戚の竇武とうぶ(霊帝の母の父、つまり祖父)は、逆に宦官たちによって自害に追い込まれています。

こうして霊帝の時代には各地で騒動があいつぐようになり、やがてその中で最大規模の「黄巾の乱」が発生するに至りました。

何進と宦官の争い

霊帝の寵姫となり、次代の皇帝を生んだのが皇后です。

宦官が多くの力を握るようになったとは言え、外戚もまた一定の力を保持しており、何皇后の兄・何進かしんは大将軍に就任して宦官と争うようになりました。

霊帝が崩じ、何皇后の子である劉弁(少帝弁)が皇帝になると、何進は外戚として権力を握るようになります。

そして敵対関係にある宦官たちの排除を計画し、妹の何太后に同意を求めました。

しかし宮中にいて、日々宦官と接する何太后はこれに同意せず、兄妹の間で考えが一致しませんでした。

宦官は太后にも仕える存在だったので、太后は宦官よりの立場をとることが多く、これが先の竇武の失敗にもつながっています。

このため、何進は地方から軍勢を呼び集め、軍事力を強化することで宦官たちを圧迫し、何太后に宦官の排除を同意させようとします。

この結果、涼州から董卓が、へい州から丁原が呼び寄せられ、都の周辺はものものしい雰囲気になっていきました。

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