外戚とは 三国志では何進が該当

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何進が暗殺され、董卓が台頭する

やがて何進は宮中に参内した際に、宦官たちの息がかかった兵士たちに暗殺されてしまいます。

すると、何進とともに宦官の排除を計画していた袁紹が宮中に乱入し、宦官たちを皆殺しにしました。

わずかな宦官の生き残りが、皇帝とその異母弟を連れて逃げ出しますが、やがて追いつめられて自害します。

そして取り残された皇帝と弟を董卓が保護し、辺境の将軍から、朝廷の重臣へとのしあがるきっかけをつかみました。

董卓
【劉弁の外戚を滅ぼしてのしあがった董卓】

何苗も殺害される

何進には弟の何びょうがいて、車騎将軍という軍の高官の地位についていました。

このため、何苗もまた多くの軍勢を握っていたのですが、董卓は謀略によって彼を殺害し、その軍勢を吸収します。

そして何進・何苗の母をも殺害し、何氏の勢力を激減させました。

これは皇帝の外戚を排除することで、自分が権力を握りやすくなるように、董卓が暴力をふるったのだと言えます。

外戚と宦官のどちらも失われ、守る者がいなくなった劉弁を、董卓は皇帝の地位から引きずりおろし、弟の劉協(献帝)を皇帝にしました。

劉協は幼いころに母を亡くしており、有力な外戚がいなかったので、他人である董卓にとっては意のままに操りやすい存在だったのです。

こうして朝廷を支配した董卓は暴政を行い、都の洛陽を廃墟に変えるなどして、後漢の中枢を徹底的に破壊しました。

この結果、後漢は立ち直ることができないほどの大打撃を受け、やがて曹氏に取って代わられることになります。

曹丕
【献帝に譲位を迫って帝位を手に入れた曹丕】

外戚の功罪

このように、外戚は皇帝をも脅かすほどの権力を握ることもあり、このために統治を乱す存在でもありました。

実際に、前漢は外戚の王莽おうもうによって帝位を簒奪さんだつされて滅んでいます。

一方で外戚がそこまで増長せず、皇帝と協力する態度に終始すると、統治が安定する傾向にありました。

外戚の支えを得られなかった劉協が、実力者たちの傀儡にされてしまった結果を見るに、皇帝の立場を守る上で、外戚の存在が機能していた、という面もあったのでした。

日本では

日本でも、古代から天皇に有力者が娘を嫁がせ、外戚として権力を握る例が多数存在しています。

特に有名なのが、三代の天皇の外戚となった藤原道長で、その他には、平清盛も安徳天皇の外戚となることで、おおいに権勢をふるいました。

これは日本においても、母親の存在が重視されていたことから発生しており、当時の日本では儒教の影響が強かったことがうかがえます。