劉備は後漢末期の戦乱の中で、強力な兵団を形成し、蜀の皇帝にまでなった人物です。
人を引きつける魅力に優れており、関羽や張飛、諸葛亮たちとともに、漢の復興を目指して戦いました。
そして帝位の簒奪をもくろむ曹操と対立し、何度も敗れましたが、やがて赤壁や漢中で勝利を収め、蜀を建国するに至ります。
病に倒れ、志は果たしきれなかったものの、全権を諸葛亮に委ね、なんら疑いなく後事を託したことが、君臣のあり方として至高のものであると、後世から称えられることになりました。
この文章では、そんな劉備について書いています。
【劉備の肖像】
琢郡に生まれる
劉備は字を玄徳といい、幽州の涿郡、涿県の出身でした。
161年に誕生しています。
前漢の景帝の子、中山靖王・劉勝の子孫で、漢の皇室の血統でした。
この劉勝の子・劉貞は紀元前127年に、陸成候に封じられています。
しかし酎祭の献上金が不足していたことをとがめられ、やがて爵位を失いました。
(酎祭はお酒を朝廷に献上する儀式で、一緒に献金もすることになっていました)
この時期には、劉貞に限らず、多くの諸侯が整理のために地位を剥奪されており、特に劉貞に問題があったというわけではないようです。
劉貞はこの後で琢郡に居住するようになり、子孫である劉備がこの地で誕生することになりました。
幼くして父を失う
その後、劉備の家系は代々、州郡に仕える役人となり、祖父の劉雄は孝廉に推挙されています。
孝廉は各地から優れた人物を、朝廷に推挙する制度でしたので、劉雄には秀でたところがあったようです。
劉雄は最終的に、范の県令(長官)にまで立身しました。
そして父の劉弘も役人になりましたが、劉備が幼い頃に亡くなっています。
特別に勢力があったわけではなかったものの、地方ではなかなかの家柄の出だったと言えます。
子どもの頃から働いて生計を立てる
劉備は幼くして父を失ったので、母とともにわらじを売ったり、むしろを編んだりして生計を立てました。
このことから、家には財産と呼べるほどのものはなかったようです。
ところで、劉備の家の東南の隅には桑の木があり、高さは五丈(約15m)もありました。
それは遠くから眺めると、こんもりとふくらんでいて、まるで小さな車の覆いのように見えました。
通りかかる人たちはみな「この樹は普通ではない」と言ってあやしみましたが、ある時、李定という人が「この家からはきっと貴人が出るだろう」と予言をしました。
劉備はまだ幼い時、親戚の子どもたちとこの樹の下で遊びながら、「おれは必ず、こんな羽飾りと覆いがついた車に乗ってやるんだ」と言いました。
すると叔父の劉子敬が「おまえ、めったなことを言うものではない。わが一族が滅ぶことになるぞ」といって注意しました。
なぜかというと、それは皇帝の車のことを指していたからなのでした。
後に劉備は蜀の皇帝になるのですが、この挿話はそれを暗示しているのだと言えます。
一族の支援を受けて遊学する
劉備が15才になると、母は劉備を遊学させることにしました。
一族の劉徳然や、遼西出身の公孫瓚と一緒に、同郷の出身で、高名な儒学者である廬植の弟子になります。
この時の費用は、劉徳然の父・劉元起が出してくれました。
劉元起はいつも劉備の学資の面倒を見ており、息子と同等に扱っています。
これをいぶかしんだその妻が「それぞれ別に一家を構えていますのに、どうしていつもそんなことをなさるのですか?」と質問をしました。
すると劉元起は「我ら一門の中にこの子がいるが、並外れた才能を備えているからだ」と答えました。
このように、劉備は若い頃から、人に期待される資質を備えていたようです。
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