曹操が撤退し、劉備と周瑜が進軍する
曹操は荊州の北部に撤退しますが、やがて流行病が軍の中に広がり、多数の死者が出る事態となります。
赤壁の敗戦に加え、こうした打撃を受けたことで、もはや南征の継続は不可能だと悟った曹操は、曹仁を江陵の守備に残し、自身は北に逃げ戻っています。
一方で、劉備と周瑜は水陸を平行して進み、荊州の南郡に到達しました。
そして周瑜が南郡の太守となり、劉備は荊州南部の諸郡を攻略しにかかります。
根拠地を得る
劉備は武陵、長沙、桂陽、零陵の四郡を降伏させ、ついに確固たる根拠地を手に入れました。
そして廬江郡の雷緒が数万の配下を率いて帰順したので、劉備の勢力は一気に拡大しました。
これは曹操に勝利したことで、勢威がおおいに高まったことが影響しているのでしょう。
この頃に、荊州で劉備を慕う人士が集まってきて、人材が充実していきました。
劉備の生涯は、長い停滞期を抜け、この時から本格的な上昇気流に乗っていきます。
劉備は49才になっていました。
曹操に比べると、遅咲きの人生だったと言えます。
荊州牧となり、孫権の妹と結婚する
先に劉琦が、劉備の上表によって荊州刺史となっていたのですが、やがて病死してしまいました。
このため、群臣たちは劉備を荊州牧に押し立て、公安を州都にすることにします。
一方で孫権は、日増しに勢力を伸ばしていく劉備を畏れるようになり、妹を嫁がせて縁戚関係を結ぶことにしました。
劉備はこのため、呉を訪れて孫権と会談し、親密な間柄となります。
しかし呉の臣下たちは、劉備を警戒していました。
周瑜が劉備を呉にとどめるように勧める
この頃、周瑜は「劉備は英傑であり、野放しにすると呉のためによろしくありません。
劉備に宮殿をしつらえてやり、贅沢な暮らしをさせて骨抜きにし、関羽や張飛をこちらの傘下に置き、呉のために利用すべきです」といったことを主張しました。
しかし、孫権は劉備はそんな手段でとりこにできるような人間ではないと見抜いており、採用しませんでした。
とは言え、劉備の身柄は危うい状況におかれてもおり、それを後で龐統から聞くことになります。
龐統を重用する
この頃に劉備陣営に加わった人材には、龐統もいました。
龐統は南郡の功曹(人事官)をしていたのですが、司馬徽や諸葛亮のつてによって、劉備陣営に加わったようです。
龐統は当初、劉備が与えた県令の仕事に真面目に取り組まなかったので、劉備の怒りを買って免職となっていました。
しかし魯粛が「龐統はそんな小さな仕事を任せるべき人材ではありません」と擁護し、諸葛亮もまた重く用いることを勧めたので、よく話し合い、その才能を認識します。
そして諸葛亮と同格の軍師中郎将(参謀兼、上級指揮官)とし、側近のひとりとして用いることにしました。
こうして臥龍と鳳雛をともに得た劉備陣営の力は、さらに高まっていきます。
江陵を攻略する
ところで、江陵には曹操が残していった曹仁が守備についており、劉備と周瑜は共同してこれを攻めることにします。
この時、両軍の間にはいくらかの軋轢があったようで、劉備は互いに武将を交換し、それぞれの指揮下に置くことで信頼の証とすることにしました。
劉備は張飛を貸し出し、周瑜はその戦力をもって江陵を攻めます。
そして曹仁に対して優勢に戦いを勧めるのですが、敵陣に自ら乗り込もうとした時に矢を受け、重傷を負って後退しました。
その後も負傷をおして戦い続け、劉備と力を合わせて曹仁を撤退に追い込み、江陵を占拠します。
しかし周瑜の寿命は、この戦いで大きく削られてしまったようでした。
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