劉備玄徳 関羽や張飛とともに漢の復興を目指した、三国志の英傑

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反対意見があいつぐ

人材の減少と、遠征の困難さが合わさったことで、蜀の内部では、遠征への反対意見が多く持ち上がりました。

学者の秦宓しんみつは「天の与える時期からいって、必ず勝利は得られないでしょう」と述べ、劉備の怒りを買って投獄されています。

また、趙雲も反対しましたが、聞き入れられず、蜀の留守を守る役目を命じられました。

そして黄権は、自分が先駆けとなって呉の力を試すので、劉備は後詰めとなってほしいと申し出て、劉備自らが荊州に乗り込むのを止めようとします。

しかし劉備はこれも退け、荊州への親征に固執しました。

劉備の心情

劉備は関羽を討った孫権に、激しい怒りを感じていたために、遠征にこだわったのだと思われます。

関羽とは君主と臣下の間柄でしたが、その関係は実の家族のように深く、劉備は関羽に対し、弟や子に接するようにして恩愛をかけており、復讐をせずにはいられない心情となっていたのでした。

また一方で、荊州は魏と戦う上で必要な土地でしたので、呉が支配を固めてしまう前に、早急に奪還したいという意図もあったのではないかと思われます。

諸葛亮の戦略案も、荊州と益州を合わせ、両方面から魏を圧迫することで勝利する、というものでしたし、益州のみで魏を打倒するのは困難でした。

諸葛亮が北伐に成功しなかったのは、一方面からしか魏を攻撃できず、魏の対応が容易になってしまったことが強く影響しています。

そして蜀の領土が減ってしまったからこそ、劉備は武力を見せつけ、権威を高める必要もあったのでした。

このような事情が合わさったことで、劉備は荊州への攻撃にこだわったのでした。

出陣する

劉備は221年の7月に出陣し、諸軍を統率して呉の討伐に向かいました。

そして自らが陸遜らに攻撃をしかける正面の戦線を担当し、黄権を鎮北将軍に任命し、別動隊として長江の北に派遣し、魏の介入に備えさせます。

孫権は劉備の進撃を恐れ、手紙を送って和睦を申し入れてきました。

しかし劉備は激怒していたのでこれを許さず、進軍を続けます。

曹操が亡き今、劉備は最古参の高名な武将となっていましたので、孫権はこの攻勢に対し、相当な危惧を抱いたものと思われます。

初戦に勝利する

呉の陸遜や李異りい、劉阿らは、秭帰しきに駐屯していました。

これに攻撃をしかけ、劉備は巫を奪います。

さらに将軍の呉班ごはん馮習ふうしゅうらに李異を攻撃させ、秭帰をも占拠しました。

こうして劉備は初戦に勝利し、秭帰に駐屯し、攻撃拠点を構えます。

陸遜が慎重だったこともあって、序盤はまず、順調に進行しました。

さらに進軍し、異民族を味方につける

222年になると、呉班と陳式の率いる水軍が夷陵いりょうに駐屯し、劉備の本隊とあわせ、長江の東西の岸を挟んで陣取りました。

そして2月になると、劉備は秭帰に諸将を集めて進軍し、山沿いに嶺を横切り、夷道いどう猇亭こていに留まります。

この頃に魏に送られた孫権の書簡には、劉備軍の戦力は兵士が四万、馬が二、三千頭だったと記されています。

この以前に、荊州南方の異民族たちから、従軍したいという申し出があったので、劉備は侍中(皇帝顧問官)の馬良を派遣し、印綬を与えて蜀軍に組み込みました。

すると五谿ごけいの異民族たちが動き出し、呉軍を圧迫し始めます。

こうして劉備軍は、荊州の中ほどにまで進軍していきました。

そして黄権が長江の北岸を移動し、夷道で呉軍と対峙する情勢となります。

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