劉備玄徳 関羽や張飛とともに漢の復興を目指した、三国志の英傑

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新野に駐屯する

劉表は劉備の軍勢を増強し、その上で新野しんやに駐屯させました。

曹操が袁紹に勝利した以上、遠からず南下して、荊州にも攻撃をしてくるのは確実でした。

劉備をそれに備えさせよう、というのが劉表の意図だったのです。

しかし、しばらくすると、荊州の豪傑たちの中に、劉備に心を寄せるものが増えていきます。

このため、劉表は劉備を疑い、密かに防備を設けるようになりました。

劉備地図7

劉表の性格と、劉備が人気になった理由

劉表は荊州を支配した後は、積極的に軍事行動を行わず、守勢に回っています。

曹操が袁紹を相手に苦戦していたときも、南から曹操を脅かすことをせず、これによって勢力を伸ばし、あるいは天下を手中にするための、絶好の好機を見逃しています。

劉表は慎重かつ保守的な性格で、乱世の中で頭角を現すのには、向かない人物でした。

それを物足りなく思い、戦いを恐れない劉備に心を寄せ、期待する者が多くなったのだと思われます。

両者はともに劉氏の出身で、漢王室の血を引いていましたので、そういった意味でも競合する関係にありました。

夏侯惇を撃破する

曹操は荊州を攻撃するため、203年になると、将軍の夏侯惇と于禁うきんを派遣してきます。

劉備はこれを、博望はくぼうで迎え討ちました。

劉備は伏兵を配置した上で、自軍の屯営を焼き払い、逃走したと見せかけます。

すると夏侯惇はこれに釣られ、追い打ちをかけてきたので、引き返して伏兵ともに包囲し、散々に打ち破りました。

やがて李典りてんが救援に駆けつけたため、夏侯惇を討ち取ることはできませんでしたが、こうして劉備は、荊州の防衛に成功しています。

曹操からすると、劉備は自分が出なければ打ち破れない、やっかいな相手だったのだと言えます。

髀肉の嘆

劉備が荊州に滞在するようになってから数年がたった頃、劉表が開いた宴会に参加していました。

その酒宴の最中にかわやにいった時に、ももに肉がついているのを見て、劉備は悲嘆にくれます。

席に戻ると、劉備の様子がおかしいことに気がついた劉表が、それをいぶかしみました。

劉備は「私はいつも馬の鞍から離れませんでしたので、髀に肉がつくことはありませんでした。

いまは馬に乗ることが少なくなったので、髀に肉がついてきてしまいました。

月日はあっという間に過ぎ去り、老年も近くなってきましたのに、何の功業も立てられていません。

それゆえに、悲しんでいるのです」と答えました。

これが「髀肉ひにくの嘆」という言葉で知られる挿話です。

劉備はすでに40才を越えており、この時代では、人生の終盤にさしかかりつつありました。

的廬の話

劉備はこの頃、的廬てきろという名の馬に乗っていた、という話があります。

ある時、劉備が劉表の宴会に招かれましたが、劉表の重臣である蒯越かいえつ蔡瑁さいぼうは劉備を邪魔者だと思い、暗殺しようと企みました。

劉備はこれに気づいてこっそり逃亡し、的露を走らせます。

やがて劉備は川にさしかかったところで、深みにはまってしまいました。

このため、劉備が「的廬よ、今日は厄日のようだ。がんばってくれ」とせきたてると、的廬は三丈(約9m)も飛び上がったので、脱出することができました。

このような話が『世語』という本にのっており、演義でも採用されているのですが、このような事件があれば、劉備がその後も劉表の元に留まれるはずもなく、創作であるようです。

ただし劉備と劉表が、ある程度の緊張関係にあったのは事実なのでしょう。

【次のページに続く▼】