新野に駐屯する
劉表は劉備の軍勢を増強し、その上で新野に駐屯させました。
曹操が袁紹に勝利した以上、遠からず南下して、荊州にも攻撃をしてくるのは確実でした。
劉備をそれに備えさせよう、というのが劉表の意図だったのです。
しかし、しばらくすると、荊州の豪傑たちの中に、劉備に心を寄せるものが増えていきます。
このため、劉表は劉備を疑い、密かに防備を設けるようになりました。
劉表の性格と、劉備が人気になった理由
劉表は荊州を支配した後は、積極的に軍事行動を行わず、守勢に回っています。
曹操が袁紹を相手に苦戦していたときも、南から曹操を脅かすことをせず、これによって勢力を伸ばし、あるいは天下を手中にするための、絶好の好機を見逃しています。
劉表は慎重かつ保守的な性格で、乱世の中で頭角を現すのには、向かない人物でした。
それを物足りなく思い、戦いを恐れない劉備に心を寄せ、期待する者が多くなったのだと思われます。
両者はともに劉氏の出身で、漢王室の血を引いていましたので、そういった意味でも競合する関係にありました。
夏侯惇を撃破する
曹操は荊州を攻撃するため、203年になると、将軍の夏侯惇と于禁を派遣してきます。
劉備はこれを、博望で迎え討ちました。
劉備は伏兵を配置した上で、自軍の屯営を焼き払い、逃走したと見せかけます。
すると夏侯惇はこれに釣られ、追い打ちをかけてきたので、引き返して伏兵ともに包囲し、散々に打ち破りました。
やがて李典が救援に駆けつけたため、夏侯惇を討ち取ることはできませんでしたが、こうして劉備は、荊州の防衛に成功しています。
曹操からすると、劉備は自分が出なければ打ち破れない、やっかいな相手だったのだと言えます。
髀肉の嘆
劉備が荊州に滞在するようになってから数年がたった頃、劉表が開いた宴会に参加していました。
その酒宴の最中にかわやにいった時に、髀に肉がついているのを見て、劉備は悲嘆にくれます。
席に戻ると、劉備の様子がおかしいことに気がついた劉表が、それをいぶかしみました。
劉備は「私はいつも馬の鞍から離れませんでしたので、髀に肉がつくことはありませんでした。
いまは馬に乗ることが少なくなったので、髀に肉がついてきてしまいました。
月日はあっという間に過ぎ去り、老年も近くなってきましたのに、何の功業も立てられていません。
それゆえに、悲しんでいるのです」と答えました。
これが「髀肉の嘆」という言葉で知られる挿話です。
劉備はすでに40才を越えており、この時代では、人生の終盤にさしかかりつつありました。
的廬の話
劉備はこの頃、的廬という名の馬に乗っていた、という話があります。
ある時、劉備が劉表の宴会に招かれましたが、劉表の重臣である蒯越や蔡瑁は劉備を邪魔者だと思い、暗殺しようと企みました。
劉備はこれに気づいてこっそり逃亡し、的露を走らせます。
やがて劉備は川にさしかかったところで、深みにはまってしまいました。
このため、劉備が「的廬よ、今日は厄日のようだ。がんばってくれ」とせきたてると、的廬は三丈(約9m)も飛び上がったので、脱出することができました。
このような話が『世語』という本にのっており、演義でも採用されているのですが、このような事件があれば、劉備がその後も劉表の元に留まれるはずもなく、創作であるようです。
ただし劉備と劉表が、ある程度の緊張関係にあったのは事実なのでしょう。
【次のページに続く▼】