李厳が降伏し、各地が劉備の支配下に置かれる
一方で劉璋は、李厳を送って緜竹の総指揮を取らせましたが、李厳は軍勢を引きつれて劉備に降伏してしまいます。
これによって劉備の軍勢はますます強大となり、各地の郡県が劉備に帰順するようになりました。
劉備は諸隊を分割して派兵し、各地を平定させます。
そして荊州から諸葛亮・張飛・趙雲をやってこさせ、白帝・江州・江陽を平定しました。
この結果、荊州には関羽のみが残ることになります。
雒城の抵抗
こうして劉備は順調に蜀の攻略を進めていきましたが、雒城に劉璋の子・劉循と張任が立てこもり、はじめて頑強な抵抗を見せました。
ここの包囲戦は一年にも及び、戦いが長引いていきます。
やがて張任は兵を率いて雁橋に出陣し、戦いを挑んできました。
劉備軍はこれを打ち破り、張任を捕らえています。
劉備は張任が忠勇の士だと聞いていたので、「降伏させよ」と命令を出していました。
しかし張任は「老臣は二君に仕えるようなことは、絶対にしない」と言って拒絶します。
このためにやむなく処刑しましたが、劉備は張任の態度に感嘆し、その死を惜しみました。
このように劉璋の元にも、忠義を備えた臣下はいたのでした。
龐統が戦死する
こうして雒城の包囲戦が続く内に、思わぬ事故が発生します。
龐統もまたこの戦いに加わっていたのですが、流れ矢に当たって戦死してしまったのでした。
なかなか攻略が進まなかったので、龐統には焦りがあったのかもしれません。
こうして劉備は、腹心となった参謀を、あっけなく失ってしまったのでした。
劉備は龐統のことを大変に惜しみ、彼の話をするたびに涙を流し、後に諡号や爵位を追贈しています。
雒城を攻略し、成都に迫る
こうして劉備軍にも被害をもたらした雒城の攻略戦は、214年の夏に終わり、陥落しました。
すると劉備はついに成都にまで進軍し、劉璋を追いつめます。
とはいえ、城中にはまだ三万の兵がおり、物資は一年分も残っていました。
このため、そう簡単に降伏しそうにはありませんでしたが、この時になって、劉備軍に新たな人材が加わります。
馬超が成都に駆けつける
馬超は涼州において、父・馬騰が率いていた軍勢を受け継ぎ、大きな勢力を持っていました。
そして韓遂と手を組んで曹操に反旗をひるがえし、討伐にやって来た曹操と戦います。
馬超は、川を渡ろうとしている曹操を見つけると強襲をしかけ、あと一歩で討ち取れそうなところまで追いつめます。
この時は、許褚の奮戦によって取り逃がしましたが、馬超は優れた武勇を天下に見せつけました。
しかし、その後は曹操の策謀によって、韓遂と仲違いをしたために敗れてしまいます。
こうして馬超は涼州を追われ、漢中の張魯を頼って落ちのびました。
それからしばらくは逼塞していましたが、やがて劉備と連絡を取り、臣従することを約束しました。
すると、劉備は馬超に兵を与えて呼び寄せ、成都の包囲戦に加わらせます。
この結果、馬超の旗が城外にひるがえると、それを見た劉璋は、これをおおいに恐れました。
簡雍が劉璋を降伏させる
劉備はこうして圧迫をかけてから、側近の簡雍を使者として送り、劉璋に降伏を促しました。
簡雍は劉璋に、降伏後の安全と地位を約束し、臣下を傷つけないとも告げ、信用を得ます。
劉璋は簡雍と同じ輿に乗って劉備の陣営におもむき、降伏を申し入れました。
これによって、ついに蜀の地が劉備のものとなり、勢力がおおいに拡大しています。
劉備は劉璋を荊州の公安に移動させ、元から持っていた財産と、振威将軍の印綬を返還しました。
こうして劉璋を丁重に扱いつつ、蜀からは遠ざける措置を取っています。
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