金銀を分け与える
蜀は物産が豊かな土地でしたので、勝利した劉備は大宴会を催し、将兵たちをねぎらいました。
そして蓄えられていた金銀を蔵から取り出し、将校や兵士たちに分け与えます。
一方で、穀物や絹織物はそのままにしておき、次の戦いに備えました。
陣容を整える
劉備は益州牧を兼務し、支配の正当性を獲得します。
そして諸葛亮が側近の筆頭として劉備を補佐する役目につきました。
また、龐統に代わって法正が策謀を担当し、関羽・張飛・馬超が爪牙にあたる武臣となります。
また、許靖・糜竺・簡雍らが賓客としての待遇を受けました。
糜竺や簡雍は劉備に長く仕えてきたからですが、新参の許靖は、元は朝廷に仕えていた高名な人物だったことから、特別扱いを受けています。
これに加え、劉璋に仕えていた董和・黄権・李厳らが配下に加わりましたが、いずれも優れた能力を備えた者たちでした。
また、劉璋の姻戚である呉壱・費観、劉璋に排斥されていた彭羕、劉備と荊州で敵対していた劉巴なども、劉備の配下となります。
劉備は彼らをみな高官の地位につけ、その才能を発揮させます。
このため、志のある者たちは競って忠勤に励み、劉備陣営の人材はますます充実しました。
荊州の争い
こうして劉備は、益州と荊州を合わせ持つようになりましたが、翌215年になると、孫権が荊州南部を譲るようにと要請してきます。
すると劉備は「涼州を手に入れたら、荊州を渡しましょう」と言ったので、孫権は腹を立て、実力で荊州を奪い取ることにしました。
孫権は呂蒙に命じ、長沙・零陵・桂陽の三郡を奪い取らせ、劉備にはっきりと敵対してきます。
こうして劉備と孫権の同盟関係は、崩壊の危機にみまわれました。
劉備からすれば、荊州は曹操と戦うために必要な土地であり、孫権からしてもそれは同様でした。
このため、両勢力がぶつかるのは、必然的なできごとだったと言えます。
荊州に出陣するも、曹操が動く
劉備は五万の軍勢を動員して荊州に向かい、公安に駐屯しました。
そして関羽を益陽に布陣させ、孫権と真っ向から戦う構えを取ります。
もはや劉備の戦力は、孫権軍にも見劣りしないものとなっており、両軍が戦えば、互いに少なからぬ損害を出すことは必至でした。
しかし曹操が動いたことで、この対立が解消されます。
曹操が漢中に侵攻し、荊州が分割される
この年、曹操が漢中に攻め込み、間もなく占拠しました。
そして張魯は巴西に逃げ込んだ、という情報が届きます。
漢中を占拠されると、そこから蜀に攻めこまれてしまいますので、劉備は危機に陥ったことになりました。
このため、孫権と争っている場合ではなくなり、荊州南部を分割し、江夏・長沙・桂陽を呉の領土に、南郡・零陵・武陵を蜀の領土にすることで話をまとめ、蜀に撤退します。
こうして荊州は北を曹操が、南東を孫権が、南西を劉備が抑える状況となり、三国鼎立を象徴する地域となりました。
曹操軍との戦い
劉備は帰還すると、黄権に軍勢を率いさせ、張魯を迎えにやらせましたが、張魯はすでに曹操に降伏していました。
曹操は夏侯淵と張郃を漢中に駐屯させ、しばしば劉備の領土を侵略させてきます。
劉備はこれに対し、張飛を派遣して対抗させ、宕渠にまで進軍させました。
そして張飛は瓦口で張郃と戦い、これを撃破しています。
すると張郃が撤退したので、劉備軍もまた兵をひきました。
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