劉備玄徳 関羽や張飛とともに漢の復興を目指した、三国志の英傑

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劉琮を攻撃せず

曹操の大軍に、劉備ひとりではとても対抗しえないため、南に向かって撤退することにします。

そして劉琮がいる襄陽じょうようを通過する際に、諸葛亮は「ここで劉琮を攻撃すれば、荊州を支配することができます」と進言をしました。

すると劉備は「それは忍びない」と答え、これを採用しませんでした。

劉備は信義を大事にしていましたので、恩があった劉表の子を討つことには、強い抵抗があったのです。

劉備は「劉表どのはわしに遺児を託されたのだ。ここでわしが裏切ったら、死んだ後で劉表どのに顔向けができぬ」とも述べました。

荊州の士人が劉備に従う

劉備は軍を襄陽の付近に留め、劉琮と話をしようと思って呼び出しをかけましたが、劉琮はおそれをなし、城から出てきませんでした。

このため、劉備は劉琮のことは放っておき、劉表の墓に別れを告げるために立ち寄ります。

そして、そこで涙を流してから立ち去りました。

すると劉琮の側近や、荊州の人士たちの多くは、劉備に従うことを選び、十万以上の人々と、数千台の荷車が、劉備に行軍につき従うという事態になります。

何ら抵抗をせずに曹操に降伏した劉琮が失望されたのと、劉備の人望が合わさって、このような状況になったのでしょう。

荊州では曹操の支配を嫌う者たちが多かったことが、表明されたのだとも言えます。

このような大勢の人々の意志が、天下が三つに割れる上で、大きな原動力になったのだと考えられます。

人々とともに行軍する

しかしこのために、劉備軍は一日に十里(4km)余りしか進めず、このままでは、曹操軍の追撃を受けるのが必至の状態となりました。

このため、劉備は関羽に命じて数百そうの船に部隊の一部を分乗させ、江陵こうりょうで落ち合うことにします。

江陵は荊州の軍需物資が蓄えられている、重要な拠点だったので、これを関羽に抑えさせようと考えたのでした。

ある者が「すみやかに行軍をして、江陵を保持するべきです。

おおぜいの者たちがついてきていると言っても、武装している者はほとんどいません。

もしも曹操の軍勢がやってきたら、どうやってこれを防ぐのですか」と進言をしました。

すると劉備は「大事を成し遂げるには、必ず、人との関わりをこそ本としなければならない。

いま、人々がこうしてわしに身を寄せてくれているのだ。

わしには、彼らを見捨てて去ることはできない」と答え、そのまま遅々とした行軍を続けました。

この時の答えこそが、劉備が多くの人から慕われた理由を、よく表現しています。

もしも曹操がこの状況に置かれたら、まったく人々をかえりみずに、切り捨てたことでしょう。

史家の評

史家の習鑿齒しゅうさくしは、この時の劉備の行動を、次のように評しています。

「劉備は困難に陥った時でも、信義をますます明らかにし、状況が逼迫ひっぱくし、危険が身に迫っても、道理に外れない発言をした。

そして劉表から受けた恩顧を追慕すると、その心情は三軍を感動させ、道義にひかれる人々に慕われることになった。

彼らがついてきたら、これを見捨てることなく、甘んじてともに敗北した。

彼が人々の心と強く結びついた経緯を見ると、酒を与え、凍えている者を慰撫し、たで(薬)を携えて病を見舞ったようなものだ。

彼が最終的に大事業を成し遂げたのも、当然のことである」

長坂の戦い

曹操は江陵を劉備に占拠されることを恐れ、輸送隊を後方に残し、軽装の軍勢を連れて襄陽に到着しました。

そこで劉備がすでにそこを通過したことを知ると、精鋭の五千騎を引きつれて急追してきます。

そして一昼夜で三百里(120km)を駆け抜け、長坂ちょうはんで劉備軍に追いつきました。

劉備の周囲には多数の民がいましたので、まともに戦える状態になく、劉備は張飛や趙雲、諸葛亮ら、数十騎とともに逃走します。

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