劉備玄徳 関羽や張飛とともに漢の復興を目指した、三国志の英傑

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袁術と戦い、将軍位と爵位を得る

やがて予想した通り、袁術が徐州に来襲し、劉備を攻撃して来ました。

劉備はこれを迎え討ち、盱眙くい淮陰わいいんで袁術軍の進撃を食い止めます。

すると曹操は上表し、劉備を鎮東将軍に任命し、宜城ぎじょう亭候に封じました。

この頃はまだ、曹操と袁紹は同盟関係にありましたので、劉備に対してこのような便宜が図られたのです。

これによって劉備はさらに地位を高め、爵位を得て、さらに袁術と戦うことの正当性も備えます。

これは196年のことで、劉備は35才になっていました。

旗揚げから12年がたっていましたが、短い期間で劉備の地位は、急激に高まったのだと言えます。

そして、それゆえにここから、反動が発生することにもなりました。

劉備地図4

呂布との関わり

ところで、袁術が攻めてくるより少し前のこと、呂布が曹操に敗れ、徐州に流れてきていました。

このため、劉備は呂布と会いましたが、呂布は劉備に対し、大変に敬意を払ってきます。

そしてともに辺境の出身(呂布は北方のへい州出身)であることを理由に、親しみを見せてきました。

私室の中に劉備を招き、妻の寝台の上に座らせ、妻に命じて劉備にていねいに挨拶をさせ、酒食をともにし、劉備を「弟」と呼びます。

呂布はこの時、窮地に置かれていたので、劉備に取り入り、居場所を確保しようと思い、媚びてきたのでした。

劉備はこれを受け、ひとまず呂布が徐州に滞在することを承認しています。

呂布は敗北したとは言え、非常に強い武将でしたので、粗略に扱い、暴れられることを警戒したのでしょう。

一方で劉備は呂布と話すうちに、言葉に誠実さがないことを見抜き、心を許すことはありませんでした。

この時点で、呂布はすでに丁原ていげんや董卓という、二人の主を裏切っていましたので、既に信用を与えることはできない存在となっていたのでした。

このように、劉備と呂布の関係は表層的なもので、内心では互いを疑っていました。

呂布に徐州を奪われる

そして劉備が袁術と一ヶ月ほどにらみ合っているうちに、呂布がその隙をついて、徐州の州都である下邳を襲撃してきました。

これは、袁術が密かに手を回して呂布をきつけたのと、下邳の守将である曹豹そうひょうが劉備を裏切り、呂布を引き込んだことが影響しています。

劉備は張飛を下邳に残し、曹豹とともに守備をさせていました。

しかし、張飛はやがて曹豹と仲違いをし、彼を殺害しようとしました。

このため、曹豹は守りを固めつつ、呂布と連絡を取り、張飛を攻撃するようにと要請します。

この結果、呂布は徐州を奪う好機だと思い、下邳に攻めこみ、張飛を撃破して占拠したのでした。

そして劉備の妻子は、呂布に捕らわれてしまいます。

劉備は撤退し、危機に陥る

こうして張飛の失態によって拠点を奪われた劉備は、陣を引き払って撤退します。

張飛の責任は大きいのですが、一方において、統治を始めてすぐに袁術に攻めこまれたので、徐州の内部を固める時間が不足していたことも、この事態に影響していると考えられます。

劉備に仕えていた陳羣ちんぐんは、この事態を予測して劉備に警告をしていましたが、耳を傾けるべきだったと、劉備は後悔しています。

劉備が下邳に戻った頃には、すでに軍勢が散り散りになっていました。

このため、兵卒たちを集めると、東に向かって広陵こうりょうを奪取します。

そこで袁術軍と戦いましたが、勢いが衰えていたために敗北し、劉備は窮地に陥りました。

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