官職を捨てて逃亡する
しかし劉備はすぐに、官職を捨てて逃亡することになります。
戦乱が続くうちに、軍功を立てた者たちが地位を得ていきましたが、やがてその者たちを起用し続けるかどうか、選別がなされることになりました。
劉備が、自分は免官される側に入れられているのではないかと疑っていたところ、やがて都から督郵という役人がやって来ます。
劉備は督郵とは旧知の仲だったので、面会を申し入れたのですが、督郵は病気だと称して会おうとしませんでした。
このために劉備は恨みを抱き、いったん役所に戻ると、部下たちを引きつれて宿舎に押しかけ、内部に突入し、「私は府君(太守)の密命によって、督郵を逮捕する!」と宣言します。
そして寝台まで押しかけて督郵を縛り上げ、引っぱり出して県境まで連れ出しました。
劉備はこの時、すでに自分から官を辞めると決めており、官印の綬をはずして督郵の首にかけた上で、樹にくくりつけます。
そして杖で百回以上も督郵を叩きました。
すると督郵が哀願したので許してやり、そのまま逃亡します。
このように、劉備は気性の激しいところもあったのでした。
下邳で戦功を立てる
平和な時代であれば、劉備ははみ出し者となっていたかもしれませんが、時は乱世でしたので、すぐに次の出番が来ました。
ある時、大将軍の何進が武将の毌丘毅を派遣し、楊州の丹楊で、募兵をさせることにします。
劉備はこれに同行したのですが、先に役人を打ちのめしたことは、さほど問題にならなかったようです。
やがて一行が徐州の下邳にさしかかった時に、賊軍に遭遇して戦闘になりました。
劉備はここで奮戦して軍功を立て、下密県の丞(副長官)に任命されます。
しかしながら、劉備はまたしてもこの地位を捨て、官を去っています。
昇進して県令となる
その後も、どこぞで戦功を立てたようで、次は高唐の尉となり、ついで県令にまで昇進し、祖父の地位に並んでいます。
こうして劉備は官位を得ては捨て、戦ってまた就任するということを繰り返し、地位を高めて行きました。
どうしてこのような行動を取っていたのかですが、戦乱の世となったので、真面目に役人として勤めるよりも、得意とする戦闘に参加して手柄を立てた方が、より手っ取り早く出世ができると、劉備が判断していたからなのだと思われます。
また、劉備は生涯に渡って転々としていますので、ひとつのところに腰を落ち着けるのを、好まない性格だったとも考えられます。
曹操とともに募兵をする
やがて189年、霊帝の末年の時に、劉備は都にいました。
しばらくすると、曹操とともに沛国に行き、兵を募集して軍勢を編成します。
経緯は記されていませんが、この頃から劉備と曹操は面識があったようです。
やがて霊帝が崩御すると、何進と宦官の間で抗争が発生しましたが、両者が共倒れとなり、最終的には董卓が実権を掌握しました。
しかし董卓は乱暴な政治を行ったので反発が強まり、袁紹を初めとした諸侯が挙兵し、天下は大混乱に陥ります。
この時、劉備もまた兵をあげ、董卓の討伐に参加しました。
公孫瓚の傘下に入る
その後、董卓が都を捨てて長安に引き下がると、反董卓連合郡は解散となり、各地で群雄同士が争う状況になります。
そんな中、劉備はある時、賊軍との戦いで敗北しました。
このため、中郎将(上級指揮官)にまで出世し、幽州で勢力を築いていた公孫瓚の元に逃亡します。
公孫瓚とは元々親しい間柄でしたので、受け入れられ、上表を受けて別部司馬となりました。
別部司馬は、別動隊の隊長のことですので、独立した兵団を率いる劉備には、適した地位だったと言えます。
この頃、公孫瓚は冀州牧(長官)になった袁紹と対立していましたので、劉備に対し、青州刺史の田階とともに、袁紹と戦うように命じました。
なお、この時期に趙雲が劉備に仕えるようになっており、劉備はまた一人、精強な武人を手に入れています。
【次のページに続く▼】