劉備玄徳 関羽や張飛とともに漢の復興を目指した、三国志の英傑

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関羽が戻る

この頃に、関羽が劉備のところに戻ってきています。

関羽は曹操から厚遇を受けていましたが、やがて白馬の戦いで袁紹軍の勇将・顔良がんりょうを討ち取る手柄を立てました。

これによって恩は返したとし、曹操の元を立ち去ることにしたのです。

関羽はその理由を、友人である張遼に対し、次のように語っています。

「曹公(曹操)が私を厚遇してくださっていることは、よくわかっています。

しかし、私は劉将軍(劉備)から厚い恩義を受けており、いっしょに死のうと誓った仲です。

あの方を裏切ることはできません」

このようにして、劉備と関羽は深い絆によって結ばれており、このために曹操は、関羽を手もとに起き続けることはできなかったのでした。

劉備の強さは、このようにして、人との間に強固なつながりを作る力に、その源があったのだと言えます。

曹仁に敗れる

劉備によって許都が脅かされるようになると、曹操は対処に迷いましたが、将軍の曹仁が進言し、劉備を攻撃することにします。

曹仁はこの時、劉備はまだこちらにやってきたばかりで、しかも兵士は袁紹軍のものなので、統率が行き渡るより前に撃破してしまうべきだ、といったことを述べました。

この指摘は当たっており、劉備は本来の自分の部下たちを連れていなかったので、充分に指揮能力を発揮できない状態にありました。

このため、曹仁の攻撃を受けると不利な状況となり、北方に撤退しています。

袁紹の元から離れることを計画する

劉備に本来の戦力を預けなかったのは、袁紹が劉備を信用していなかったことの証でした。

袁紹は、表面的には寛大にふるまうものの、その内面は猜疑心に満ちており、他人に信頼を預けることができない性格だったのです。

このため、劉備はいつまでも袁紹の元に留まるのは得策ではないと考え、本来の戦力を取り戻すことをもくろみます。

劉備は、南方の荊州を支配する劉表りゅうひょうと連合し、北と南から曹操を挟み撃ちにすれば、勝利は間違いないと進言します。

そしてこれを実現するため、本来の部下を戻して、戦力を整えさせてほしいと要望しました。

これはもっともな提案で、先には新規に部下を与えて失敗していましたので、袁紹は劉備の要望に応え、元の部下を劉備に返し、再び南方へと送り出しました。

蔡陽を撃破する

劉備は汝南に到着すると、賊軍の襲都きょうとらと合流し、数千人の部隊を指揮します。

すると曹操が蔡陽さいようを派遣して攻撃してきましたが、劉備はこれを撃破し、討ち取りました。

劉備は呂布や曹操といった、最上級の武将を相手にすると、しばしば敗北しましたが、それ以下の力量の武将には、よく勝利しています。

劉備の軍事能力は、呂布や曹操の一段下ではありながらも、並の武将たちよりは、ずっと秀でていたのでした。

超一流ではないが、一流だった。

そのあたりが妥当な評価ではないかと思われます。

袁紹が敗北し、劉表に身を寄せる

その後、袁紹は官渡の決戦において、曹操の奇襲によって食糧を焼き払われてしまい、大敗を喫しました。

こうして勢力を増し、余裕ができた曹操は、自ら南下して劉備を攻撃してきます。

このため、劉備は糜竺と孫乾を劉表の元に派遣し、受け入れを要請しました。

すると劉表は、自ら劉備を郊外まで出迎え、上客に対する礼をもって待遇します。

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