袁紹の陣営に参加するも、曹操がやってくると逃亡する
劉備は孫乾を袁紹の元に派遣し、連合を組むことにしました。
孫乾は劉備が徐州にいるうちに仕え始めた人材で、外交を得意としており、たびたび各地への使者を務めています。
このような情勢となったため、曹操は劉岱と王忠を送って攻撃してきましたが、劉備はこれを撃退しています。
劉備は劉岱らに対し「おまえたちが百人来たとしても、わしをどうすることもできぬ。曹操自身が来れば、どうなるかはわからぬがな」と言い放ちました。
すると曹操は、官渡で袁紹と対峙していたのですが、諸将をそこに留め起き、精鋭だけを引きつれ、自ら劉備を攻撃することにしました。
斥候の騎兵がこの情報を知らせてきましたが、劉備は曹操が官渡から離れられないと思い込んでいたので、信じませんでした。
確認をするために、数十騎を従えて陣の外に出ると、曹操の軍勢が向かってくるのが目に入ります。
そしてそこに、曹操自身の旗があることを確認すると、劉備は戦いをあきらめ、すぐに逃げだしました。
このため、妻子がまたも捕縛され、さらに関羽までもが捕虜となってしまいます。
この時の情勢であれば、徐州で持久戦に持ち込み、袁紹が有利になるようにしてもよかったはずですが、曹操が自らやってきたのが、よほどに意外で驚いてしまったのでしょう。
ともあれ、機略においては曹操の方が劉備よりも一枚上手であり、またも徐州の確保に失敗したのでした。
袁紹は好機を逃す
一方で、曹操が官渡を離れたのは、袁紹にとっては好機でした。
参謀の田豊が、袁紹に曹操の背後をつくように勧めましたが、袁紹は子どもの病気を理由に出撃せず、絶好の機会を逃しています。
田豊は杖で地面を叩いて怒りましたが、袁紹が大軍を擁しながらも曹操に勝てなかったのは、性格が優柔不断で、必要な時に動けず、機敏さに欠けていたからでした。
劉備はそのあたりを見誤ったので、曹操に敗れたのだとも言えます。
袁譚が出迎える
劉備は青州に逃れましたが、この地は袁紹の長男で、青州刺史の袁譚が統治しています。
この袁譚は、劉備によって茂才に推挙されたという経緯がありました。
茂才は朝廷に優れた人材を推挙する制度で、つまり袁譚は劉備に恩があったのです。
このため、袁譚は軍勢を率いて劉備を出迎えました。
そして劉備は袁譚に先導され、かつて統治していた平原国に入ります。
なお、この頃に公孫瓚は袁紹に敗北し、自害して世を去っています。
そんな中で袁紹の元におもむく劉備の心情には、複雑なものがあったことでしょう。
袁紹に歓迎される
袁譚が使者を送って袁紹に報告すると、袁紹は将軍を派遣して出迎えさせました。
そして袁紹は本拠である鄴を出発し、二百里(80km)先まで出向いて、自ら劉備に会いに来ています。
このようにして、袁紹親子は劉備を丁重に扱い、歓迎しています。
劉備が袁紹の元に一ヶ月ほど留まっていると、逃亡兵たちが集まって来ました。
袁紹は曹操と戦うにあたり、劉備の指揮能力や戦力を求めていたがゆえに、大事にしたのでしょう。
許都の周辺を脅かす
袁紹は曹操と官渡でにらみ合っていましたが、やがて黄巾賊の残党で、汝南で勢力を持っていた劉辟らが、曹操に反旗を翻しました。
そして袁紹に呼応したので、袁紹は劉備に自分の軍勢を与え、そちらに送り出します。
この時、劉備は従来の部下たちからは切り離され、なじみのない部隊を指揮することになりました。
これは袁紹が、劉備に本来の部隊を与えると、行ったまま帰ってこなくなるのではないかと、疑っていたことによるのでしょう。
袁紹は、劉備を歓迎はしたものの、心からは信用していなかったのでした。
劉備は劉辟と合流すると、許都の周辺を荒らしてまわり、曹操を脅かしました。
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